水になった村をやっと見てきた。
生きることは食べることだ。
生きることは安心して寝れることだ。
そう感じたのは、大学生時代に無人島に行った時。
食べ物を探す。食べれそうなものを見つけ、食べても死なないものを見極める。
そして、食べれる状態にする。
食べるということは生き延びること。
食べることは幸せなこと。
寝る場所が決まっていないということは、非常に不安なことである。
今日はどこで寝ようか、安全なところは上手く見つかるだろうか?
人間は安心して寝れるところを求めている。
水になった村
東京では10月5日まで、みなさんぜひ。
水になった村を見てきて感想。
人は土地と直接的につながっているんだと感じた。
土地への感謝の思い。
人はその土地で生まれ、その土地で育てられ、その土地に返っていく。人間にとって土は直接的だ。
現代社会はアスファルトになり、土はなくなった。
土がなくなり人と土地とのつながりが薄れ、人は土地を捨てるようになったんだと思う。
食べるという行為の本質は、生きることだ。
食べるという行為には喜びが詰まっている。
食べ物をとる喜び、作る喜び、そして一緒に食べる喜び。
住むこと、生きること。
食べること、生きること。
石川直樹さんの感想(ページ下部)
http://www.poplarbeech.com/movie/movie_070810.html
さげさかのりこさんの感想
http://www.geocities.jp/sagesakanoriko/etc/index.html
本郷さんの感想
http://hanamote.com/blog/archives/2007/09/post_157.html
さげさかさんのこの部分が非常にしっくりきた。
一番悲しいことは、終わってしまうことではなく、続かないということだ。失われ、終わってしまうことは悲しいけれど、そこで本当に終わってしまうことこそが悲しい。そしてそれは、ダムになった山奥の村だけでなく、身のまわりのあらゆるところでも、起こっていることだと思う。失われて取り戻せないものはいっぱいあって、たった今も失い続けている。意味あるものが無意味に失われ、破壊される悲惨は決して特別な事件ではない。認めたくないが、身近でもいっぱいある。
けれど、たとえ人、一人の生命が終わったとしても、それがすべての終わりではない。それが「命」ということの意味なのだと思う。それを終わらせないこともまた、「命」にしかできないことであるのだと思う。