2008/7/5 土曜日

自分が入れ替わる

Filed under: diary, , 思うこと, art, 人生 — takeshi @ 10:14:51

先日、バスと電車を乗り継いで長野を訪れた。
先日といっても5月の末ぐらい。

友達のアトリエと彼の家が運営する西丸記念館(@稲尾)へ。
田んぼがあり、山があり、湿原があり、家の前には湖があるという素晴らしい環境。

友達のご近所さんの田植機が壊れたというので、田植えを手伝うことになった。
産まれて初めての田植え。それも手植えだった。
田んぼに素足を入れたとき、ひんやりとした柔らかさを感じた。
土の肌理が細かいなと。
柔らかい水の含んだ土に足を包まれるのは、こんなにも幸せなことなのかと満たされた。
とても心地よい時間だった。

まっすぐに植えるのはかなり難しかった。
田植えをしながら、いろいろな話を伺った。
機械で植えるよりも、人の手で植えた方が育ちやすいとか、田植えをしている田んぼでとれる米の量など。

この田んぼでとれる米の量を聞いて驚いた。
なんとその田植えした水田では200キロの米が取れるという。
さて、どれぐらいの米かを考えた。
1日1合食べたとして、1合は180グラムでと計算すると、人間は年間に60キロぐらいの米を食べる。
何と、自分の体重と同じぐらいの米を食べるのだ。
冷静に考えれば当たり前だが、こうやって実際の重量で目の当たりにするとすごい。
食べるものの重量と自分の体重を比較する。
そして、それが自分の体重と同じぐらいなのだ。
米だけで考えても、僕の体(全ての肉体)は米と入れ替わっている。
僕の体は食べ物によって常に入れ替わっていることを実感した。
自分の体は食べ物でできているんだと、改めて強く感じた。

そして、その体を作っている米に感謝した。
そして土ってありがたいな。と改めて思った。
僕が生きることを支える米を作るのが土なのだから。

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2008/7/4 金曜日

植村直己物語 彼がどうしても大切にしたい気持ち

Filed under: , 思うこと, art, 人生 — takeshi @ 1:08:27

植村直己物語をやっと見た。
やっとという表現が、本当にしっくりくる。
何年も前に映画化されたものを。
彼の生きることに対する姿勢に、本当に心から敬愛している。

そんな映画の中でのワンシーン。
彼がどんなことがあろうと譲れない、その気持ち。
彼がこの信念を破ったら、生きていないことと同じなんだろうと思う。

「みせもんなんかじゃない、
人間が自然と戦って、
どこまで耐えられるか、その限界に挑むことなんだよ。
知恵と体力を振り絞って、
生きることへの限界を試すことなんだよ。

金使って近代的装備の助けを借りることがいけないって言うんだったら、
登山だって同じじゃないか。
近代的装備と集団の力さえあれば、今は登れない山なんてないよ。

でもそういう登山は、人間を歯車にしちまうんだよ。
俺が感じたいのは、たった一つのこの体。
たった一つのこの頭なんだよ。
生きる最小単位としての俺自身なんだよ。」

2008年3月5日

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2008/7/2 水曜日

バナナを手に取った、そして宇宙のはじまりを知った

Filed under: diary, 思うこと, art, 人生, テクノロジー — takeshi @ 0:45:21

バナナを手に取るという日常の何気ない行動も、宇宙のはじまりも実は同じこと。
どちらにもその瞬間に次元は生まれ、世界のはじまりがある。
「バナナを手に取った、そして宇宙のはじまりを知った」

宇宙のはじまりは無だったのか?時間も空間もないとは何なのか?
人間の意識とは何か。人間というものの進化の過程はどうなっていたのか?

そんなことを語っていたときに、気がついたこと。
宇宙のはじまりって後から理由付けをしようとするからたいそうなことに思えるが、本当は何気ないことだったのではないか。
日常の一コマにある、バナナを手に取るということ。そんな行動と宇宙のはじまりは何ら変わらない。
おそらくそうなんだろうと思う。
バナナを取るという行動によっても、新たな次元が生まれ、世界が生まれている。
友達3人ですき焼きをした後、夜中まで語った水曜の夜。

まあ、これだけ読んでも意味が分からないと思いますが、この時は本当にバナナと宇宙のはじまりがつながったのです。
2008年3月5日

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2008/6/5 木曜日

共に生きた者への思い

Filed under: diary, 人生 — takeshi @ 0:36:11

僕がこの町に引っ越してきたのは12月だった。
引っ越して間もない頃、コンビニ弁当を食べる気分にもならず、まだコンロもなく自炊をする訳でもなく。
そんな休日の夜に暖簾をくぐったのが初めてだった。
暖簾をくぐったといっても居酒屋ではなく、中華料理の定食屋。
古びた定食屋で入り口に暖簾がかかっている。

とてもこじんまりとした店内には、カウンターに丸イスが7脚ほど。
イスの後ろを人が通るのがやっと、といった具合の狭い店だ。
紙にサインペンで書かれたメニューには、
餃子定食 550、
麻婆豆腐定食 600、
茄子の辛みそ炒め 600、
豚玉定食 600、
担々麺 600、
などと書いてある。
確か餃子は単品で300円だった気がする。

定食にはみそ汁、ご飯、お新香がつくという、王道の定食を出してくれる。
店主のおじさんは、白い肌着を着て中華鍋を振っていた。
ご飯とお味噌汁そしてお新香の担当はおばさんだった。

飲み物を頼まなければ水すら出ない、こんな不器用だけどまじめにやっている、そんなこの店が好きだった。
おじさんとおばさんを見ていると、なんかホッとした。
家からも近く、安く栄養バランスも取れて腹もふくれる。
そして、おじさんとおばさんの人柄が作り出す、安心できる店。
確か2、3回通ったと思う。
自炊しない時や、疲れて家路に着いたときには立ち寄りたい店だった。
そんな風に思っていた。

しばらくして店の前を通ると、「しばらくの間 休みます」との張り紙があった。
せっかく見つけたお気に入りの店が、すぐに休業とは残念だった。
また、別の定食屋を見つけよう、そんなことを思っていた。
とは言っても、この店に未練があり、毎晩ジョギングをする時は店の前を通り営業していないかチラッと見ていた。

5月のある日、店に電気がついていた。
また、やっている。
また行こう、そんな気持ちになった。

マラソンに出ることもあり、毎晩ジョギングをしていた。
そのために、夕食は早く食べていたので、家についてから夕食と言うわけにはいかなかった。
行きたいと思いつつ、行くことができていなかった。
マラソンも終わり、家に帰ってから店にゆっくりと行こうと決めていた。
そして、久しぶりに暖簾をくぐった。

すると、5人もお客さんがいた。
一番奥には30歳ぐらいの男性、手前にはバンドかアイドルかといった風貌の20歳前後の青年3人。
そして、おじさんと話す4,50歳の男の人。

店に入ると、おじさんがほっそりして見えた。
何か、以前とは違った空気が店の中にはあった。
そして、僕の意識の中にも考えたくないことが宿った。
4,50歳の男の人は20年以上前にこの近くに住んでおり、常連だったそうだ。
そして、その男はおじさんと話をしていた。
当時のこと、そして今のことを。

52歳という若さだったと言う。

雨がしとしとと降る夜、
いささか私的すぎる感情に包まれた。

3ヶ月が経ち、おじさんは一人で店を再開した。
少しためらいながら、小さな声で「180日経った今も、毎日泣いてるよ。
昼はいいんだけど、夜になると一人ぽつんと、どうしようもなく寂しくなる。
仕事をしていると、お客さんに聞かれるとまた思い出す。
でも、仕事をしていると気がまぎれるんだよ。」

「50年生きてきたのに、セレモニーはたったの3、4日ぐらい。
そんなの寂しすぎるよ。」

おじさんは常連客にそんなことを話していた。
僕が何をできる訳でもないし、僕がどんな感情を抱いても仕方ないのかもしれない。

お客が僕一人になったとき、おじさんに話しかけようとした。
でも、僕は何かを話すことはしなかった。
ただ、明日もこの店に来ようと思った。
常連客が好きだと言う、豚玉定食を食べに。

今日はおじさんが水を出してくれた。
真新しいウォーターサーバーが置いてあるのが見えた。
そして少なくなった水をみて、「水入れるよ」と言ってくれた。

僕は、水を飲み、600円を払った。
「ごちそうさま。また来ます。」
そう言って、店を後にした。

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2008/6/4 水曜日

精神と肉体の同一化と空白の時間

Filed under: diary, , 思うこと, art, 人生, 写真, — takeshi @ 8:26:29

最近、夜ひたすら走ってるんだけど、
考えているのか考えていないのか、そんな時間。
で、何かを思いつくことがあるんだが、
今日ふと思ったのは、現代人は精神と肉体を同一化する必要があるのではないかと。
たぶん。

社会というものが成り立ってから、精神と肉体は分離するようになったと思う。
社会というものができて、人と人がコミュニケーションを取り、分業して生きていくようになる。
そして何らかのルールが生まれ始める。
感情のおもむくままに行動はできなくなる。
腹が減ればハンティングをして食べ、眠たくなったら寝る。
そうはいかなくなる。
感情(欲望)と行動、精神と肉体が切り離される。

だが人間にはやはりプリミティブな記憶が残っていて、定期的にそれらを同一化しないとバランスが取れない。

精神と肉体を結びつけるものが必要である。
その一つが音楽であり、踊ることであり、走ることであり、冒険であったり、暴力であったり、ものを作る行為であったり、日常では食べることであったり、寝ることであったり。
そんな気がした。

2008/04/03

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