「art」カテゴリーアーカイブ

進化する水族館

品川駅すぐのアクアパーク水族館に行くと、水族館とは思えないエンターテイメント性ある空間になっていた。
小さい頃は親と一緒に水族館に何度か行ったことがあるが、おとなになってからは水族館に行く機会はなかった。

昔は水槽に魚が泳いでいただけだったが、次は全面ガラス張りの大きな水槽にジンベイザメとか泳がせるようになった。そして、ジャングルを真似た水槽&空間やイソギンチャクとか海の生き物になどに触れ合えるゾーン、珍しさで深海魚の特別展示とか、あとは昔からあるイルカショーの類。最近はクラゲをライティングして幻想的な空間にしたり、夜の水族館で寝れるというイベントをしたりしていたのは知っていた。

花火というコンセプトで、ネイキッドというプロジェクションマッピングとかをやっているアーティスト集団が手がけていた。LEDを使った空間や、水槽に映像を映し出して水槽を触ると、魚が映し出されてズームしたり、360度回転して見れたりと、昔みたいなダラダラ書かれた文章だと読まないけれど、こっちのほうが身になるなーと。

こうしてどんなものも変化していく。ITの技術というと厳密には違うけれど、ネットが普及し、高性能のパソコンが当たり前になり、プロジェクターとかそういったデバイスもそれに連れて発達すると、いろいろな活用方法が生まれる。それは、もちろん水族館という場にも。

ネットやVRなどの発達で、フェスなど含めてリアルのイベントが価値を持つようになると言われているが、イアルなイベント&テクノロジーを使った演出ってもっともっと加速度的に発展するんだろうな。どんどんコストかからなくても出来るようになるし。楽しみな世の中だね。

どんな場所でも、行ってみないとわからないなー。いろいろな発見があるし、こういった場にもたまには行かねばと思った。

飛行機で見た映画と本

いろいろと映画を見た。この3年ぐらいかな飛行機で映画を見るようになった。年をとって寝れなくなったのか、現地でもスマホ使えるから下調べがいらなくなったからか。そうそう、あと映画を見て涙もろくなった。今回5本ぐらい見た中で一番良かったのが、「湯を沸かすほどの熱い愛」だった。

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「湯を沸かすほどの熱い愛」

父の蒸発
子供のいじめ
母の遺伝子ちょっとはあったみたい
母のステージ4のガン宣告
海老蔵妻のガンの死 俺と同い年
母は死ぬのに、連れ子
この家にいたいです、それでもママを好きでいいですか?
人生いろいろある
親子の絆、これに変わるものは存在しない
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この映画を見て、娘を持つ父として、日々の些細なことの積み重ねが父にしてくれているんだなと思った。今まで特に気を止めなかったことでも、父としての視点で見て、感じている。その積み重ねが自分の気持とか意識とかを父にしていってくれている。娘を持つこと、父になること、父じゃないとわかない感情、責任感というものがあるよなと。

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深夜食堂
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AmazonFireTVでは30分ものの短いのを見ていた。集中しなくてさらっと見れるからと見ていたのだが、まあ、特に印象に残ることなし。

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映画 「あん」

人の一生とはなにか、何によって決まるのか
どんな人生になるか
コントローラブルであり、そうでない
人の感情
だれと、どこで、どんな風に生きていくか
何を幸せに感じるか、飛び立てる鳥の幸せ
飛び立てない中での幸せ
差別、地位、お金、何らかのステータス、何らかの階級分け
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ハンセン病に関する映画。
自分が望み、いくら努力をしても抗えない世界ってあるよなと。成功して調子に乗ったりすると、努力とか自分次第でどうにでも世界が変えれると思ってしまうことも。自分は常に環境のせいにせずに、日々試行錯誤をするべきなんだけど、それは他人に押し付けるべきではないよね。絶対に抗えない環境とかってあるんだし、その環境の人を自分の軸でジャッジするのは違っている。

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永い言い訳

家族

子供
親子
一時の楽しさ
何を大切に生きる
突然家族を失うこと
家族を愛すること
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西川美和監督作品だったので、期待していたがそこまではまらなかった。
家族の形っていろいろある。そして、正解もなし。
どんな状況であろうと、家族が幸せを感じられる生き方を必死で模索するというのが人生なんだろう。

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君の名は

大ヒットしたので見てみたが、いまいち刺さらなかった。
自分が共感して良いと思わなくても、なぜ多くの人に刺さったのか、その理由は理解できないと良くないなと。
そういった消費者心理がわからないとビジネスマンとしてセンス無いなと。

印象に残ったのは音楽が非常に頭に残る。
場面ごとに流れる音楽は非常に良いなと思った。
あと、様々なシーンで東京の町が映るんだけど、ああ、あの町ねとわかる、その親近感。あとは、あり得ないけど、夢見そうな不思議なシチュエーションかね?

作り手に意味あった作品が、買い手には全く意味の作品(異物)として買い手の空間にあることの意味

アート作品には作り手がいる。
一方で、その作品を見る人がいる。
アート作品を購入して家に飾るなどした場合は、この人は買い手となる。

作り手にとって作品は非常に深く、複雑な意味が込められたものであることが多い。
その思いや背景は言葉ではなく、より抽象化されたアート作品という形で世に出ていく。

作り手にとって意味があった作品、意味を込めた作品が、買い手(見る側)にとってその意味がなくなる。
意味がなくなるという表現は適切ではないかもしれないが、買い手(見る側)が作り手の背景を理解し、いくら深く広く考えたとしても、作りての意図を完全に理解しきれない。

そうした観点からすれば、意味のないものが、買い手(見る側)の家などのプライベート空間に突然存在することになる。

作り手にとってはどこまでも深い意味があったものが、買い手(見る側)にとっては全く意味のないものが家に存在することに意味がある。
そういうものが、空間にどう影響与えるのか、買い手(見る側)やその家族にどう影響をあたえるのか、そこに興味がある。

と、フランクフルトでビールを飲みながら蓮沼画伯が語った。

作家の溢れ出す思いや気持ちを作品に乗せて、世の中の人に伝えたいという気持ちもあるんだろう。でも、その領域を越えて、自分の作品が自分から離れてどんな価値を生み出せるか、そこを一番のポイントとしていることが、ああ、そういう視点かと勉強になった。

そんな話を聞いて帰国後、世田谷美術館ではらぺこあおむしの作者エリック・カールさんの展示を見ると、絵本という作品もそういった視点で見えてくる。

3Dプリンタ第2段はスマホ立て

3Dプリンタは時間が掛かるし、使う頻度が低いから世の中に普及して一般化することはないだろうなと、使いながら思い始めた。一方でもう少し精度が上がれば、本当に便利なツールでもあると思う。

いろいろ調べていると、3Dモデリングデータの共有サイトや検索サイトなど、いろいろなコミュニティがあって面白いし、ロボットを作るプロジェクトもあった。3Dプリンタでボディを作って、ラズベリーパイみたいなので回路部分を作って、プログラムして動かすみたいな。中学生とかがやったら夏の自由研究とかに最高だろうな。

実用的なものを作ろうと思って、スマホ立て。スマホたては持っていなかったんだけれど、岐阜の実家と毎週LINEでビデオチャットをやっていて、その時にいつもスマホを立てかけるのが不便だった。手で持っていると疲れるし、他のことができない。ということで、スマホ立てを早速作ってみた。

かなり精度高くできたのだが、1ミリ弱ぐらいサイズが合わず、ヤスリでほんの少しだけ削ったらぴったりハマった。逆に言うと、それぐらいの精度で作ることができるのだ。いやはや驚き。

新しい世界へ

全く初めての経験だった。

長いはずなのに、あっという間の出来事だった。

同じような時間が流れるのに、なぜかそう感じない。

遮光カーテンが引かれた室内は、時間感覚を失い時の流れすら忘れていた。

そして、何もできない自分がいるのに、ここまで自分のことのように感じる不思議な感覚。

この時間を共にするなかで、女性の精神と肉体の特異さ、自分との絶対的な違いを一層強く感じ、尊敬と感謝の気持ちで溢れ出す。

未経験すぎて、今まで見たことなさすぎて、次に何が起こるか分からない。

少しの不安がありつつ、冷静に心を落ち着ける自分、それなのにどこか自分ではないという感覚が残る。

頭では分かっているのに、人の中から人が出てくるという不思議を全身で味わった。

髪の毛を見、頭を見、体を見、泣き声を聞いた時、こみ上げてくる安堵感と感謝の気持ち。

今、始まり、これからどんな時を一緒に過ごすのだろう。

そして、彼女は僕の知らない世界をどれだけ見るのだろう。

いいもんだね。

ありがとう。

父ちゃん、早口で、いろいろ話しかけちゃうけど、いろいろ気になってなんでも質問しちゃうけど、仲良くしてね。

たとえ親であっても、
子どもの心の痛みさえ本当に分かち合うことはできないのではないか。
ただひとつできることは、
いつまでも見守ってあげるということだけだ。
その限界を知ったとき、
なぜかたまらなく子どもが愛おしくなってくる。
星野道夫