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3Dプリンタ第2段はスマホ立て

3Dプリンタは時間が掛かるし、使う頻度が低いから世の中に普及して一般化することはないだろうなと、使いながら思い始めた。一方でもう少し精度が上がれば、本当に便利なツールでもあると思う。

いろいろ調べていると、3Dモデリングデータの共有サイトや検索サイトなど、いろいろなコミュニティがあって面白いし、ロボットを作るプロジェクトもあった。3Dプリンタでボディを作って、ラズベリーパイみたいなので回路部分を作って、プログラムして動かすみたいな。中学生とかがやったら夏の自由研究とかに最高だろうな。

実用的なものを作ろうと思って、スマホ立て。スマホたては持っていなかったんだけれど、岐阜の実家と毎週LINEでビデオチャットをやっていて、その時にいつもスマホを立てかけるのが不便だった。手で持っていると疲れるし、他のことができない。ということで、スマホ立てを早速作ってみた。

かなり精度高くできたのだが、1ミリ弱ぐらいサイズが合わず、ヤスリでほんの少しだけ削ったらぴったりハマった。逆に言うと、それぐらいの精度で作ることができるのだ。いやはや驚き。

新しい世界へ

全く初めての経験だった。

長いはずなのに、あっという間の出来事だった。

同じような時間が流れるのに、なぜかそう感じない。

遮光カーテンが引かれた室内は、時間感覚を失い時の流れすら忘れていた。

そして、何もできない自分がいるのに、ここまで自分のことのように感じる不思議な感覚。

この時間を共にするなかで、女性の精神と肉体の特異さ、自分との絶対的な違いを一層強く感じ、尊敬と感謝の気持ちで溢れ出す。

未経験すぎて、今まで見たことなさすぎて、次に何が起こるか分からない。

少しの不安がありつつ、冷静に心を落ち着ける自分、それなのにどこか自分ではないという感覚が残る。

頭では分かっているのに、人の中から人が出てくるという不思議を全身で味わった。

髪の毛を見、頭を見、体を見、泣き声を聞いた時、こみ上げてくる安堵感と感謝の気持ち。

今、始まり、これからどんな時を一緒に過ごすのだろう。

そして、彼女は僕の知らない世界をどれだけ見るのだろう。

いいもんだね。

ありがとう。

父ちゃん、早口で、いろいろ話しかけちゃうけど、いろいろ気になってなんでも質問しちゃうけど、仲良くしてね。

たとえ親であっても、
子どもの心の痛みさえ本当に分かち合うことはできないのではないか。
ただひとつできることは、
いつまでも見守ってあげるということだけだ。
その限界を知ったとき、
なぜかたまらなく子どもが愛おしくなってくる。
星野道夫

宇多田ヒカルと母

宇多田ヒカルが6年ぶりぐらいに歌手復帰したらしく、テレビに出ていて糸井重里さんと話していた。その内容が非常に興味深く聞いていた。宇多田ヒカルは去年、母になってそんな事もあって、彼女の歌は歌詞は変わったようだし、その経験を通した彼女の変化や気付きに基づく話もとてもおもしろかった。おそらく、この世界に我が子もお目見えするというのもあって、特に面白く話を聞いたのもあるんだろう。

どん詰まりのときに唯一できることはユーモア
本当にどん詰まりで、にっちもさっちもいかないような状況にできることはユーモアしか無い。その打開策というよりも、それでしか、自分を救えないし、他にできることはない。結果的に、ユーモアで拓かれることがある。

自分の根源の無意識さによって、自分がなんたるかを悩む
その人の世界観や、価値観、人格形成の一番大きな影響となる生まれてからの1,2年。このときに経験したことや感じたことなどで、人格の基礎が作られる。この影響は大きいのに、おとなになるとその当時に経験したことは、何も覚えていない。思い出そうとしても思い出せるはずもなく、何も記憶も記録も残っていることはない。だから、大人になって自分という人間について考えたり、悩んだり、もがいたりしたときに究極の答えが見つからない。いくら、自分を辿っていっても、生まれたことの幼い記憶はない。でも、そこに根源があるのだから。まあ、だからこそ人は悩む。そうだなと思う、だからこそ、小さい頃の映像が残っているとおとなになってから見れて良いなと思うし、俺が(無駄に?)ブログを書き続けているのもその理由。幼いときでなくても、おとなになっても結局記憶は薄れ、書き換えられるのだから。明確に残っている拠り所がある方が、自分を遡って解き明かすには好都合なのだ。

子育てで、自分が育った過程を値体験
親になることで子育ての過程で、自分がどのように育ってきたのか、成り立ってきたのか、それが追体験のように経験できる。だからこそ、改めて自分の成り立ちというものを理解できて、自分をより知ることができる。

宇多田ヒカルが「道」という曲を歌っていて、なんか、この曲を聞きながら、宇多田ヒカルは母になったんだな。そんなことが、自然と頭によぎった。そして、約1年間、自分の子供をお腹の中に抱え、いだいていた。そのことが、とんでもなく代替不可能なことだなって、思い、それが母と子の特別な関係と言うか、感情をうむんだろうなって。別々の人間なのに、一体となっていて、それも1年弱も。その経験って、生まれてからではありえないことで、母と子って不思議な何かでずっと繋がっているんだろうなと思った。おそらく、宇多田ヒカルの母藤圭子の死と、宇多田ヒカルと彼女の子の話が出たから、特にそんな印象を得たんだろう。

星野道夫写真展×2

星野さんが亡くなってから20年。
ということで、写真展や雑誌がいろいろと発売された。いつも銀座松屋で開催される写真展に足を運ぶ。大きく引き伸ばした写真と言葉の数々。

やはり、カリブーの移動が圧倒的だった。あの写真の持つ力の総体は圧倒的だ。1頭1頭のカリブーがアラスカの原野を駆け抜ける、その世界。海に潜ると小さな魚が群れて一斉に向きを変えたりして泳ぐ姿を見ることがある。まるで小学校の教科書に乗っていたスイミーのように。そういった海でしか普段は見ることができない群れが、アラスカの大地でも起こっている。僕らの知らないときに、僕らの生きている同じ時間に。

あと、面白かったのはメジャーなカットの写真とセットで撮った一連の写真をネガフィルムでライトボックスで展示していた。その時の一連の写真を見れたのだ。動物の動きなどが分かるし、まるでコマ送りの動画のように星野道夫さんが、どんな瞬間を味わい、切り取ったかが少し分かったような気がした。

展示の最後はこの言葉で締めくくられていた。

短い一生で
心魅かれることに
多くは出合わない
もし見つけたら
大切に… 大切に…

自然の中で遊ぶようになって、世界のいろいろな地域を旅をして、海も山も夏も冬も、そうしていくうちに星野道夫さんの言葉の意味をより深く深く噛みしめるようになっている。

銀座松屋の写真展が終わって、糸井重里さんのtobichiで小さな写真展が開催されるというので、こちらも行ってきた。表参道の狭い場所ながら100枚の写真が展示されるという。理由はこんなもの。

テーブル大の巨大ライトボックスを用意し、
その上に、星野さんが撮影した
「35mmフィルム」を100枚ならべて、
ご来場のみなさまには、
ルーペを使って、
1点1点、作品と1対1で向き合うように、
ご観覧いただくという趣向。

星野さんがフィールドで撮影した写真を、家に戻って写真に初対面したのと同じように、ルーペを使って写真を見る。ルーペで覗くと、それ以外のものが視界に入らない。いくら大きく伸ばした写真であっても、展示会場の壁や床、証明、隣の写真が目に入る。けれど、ルーペで覗き込むと、写真以外何も視界に入らない。この視界の違いが非常に没入感を作り出してくれた。

今まで見たどの写真展とも写真集とも違って、もっとも写真と正面から向き合えて楽しむことができた。ただ、最終日で混んでいたので見れれる時間が短かったのが残念なところ。でも、アラスカの風を感じ、東京という街にいるのに、悠久の時を感じられる、そんな素敵な展示だった。

下手でもまずやれ、そして発表しろ

下手でもまずやれ、そして発表しろ。
と当たり前のことを思う。

どんどん失敗すればいい。失敗しなければ上達しない。

最初から最高のものは作れない。
他者からの評価は最高に良いこともあるが、後から当事者が最初の作品を振り返れば稚拙な点が多いと思う。
当たり前だ。
やっている間に成長していくのだから。

ヘタでも発表する。でもヘタで発表したくないからその前に努力する。
でも、うまくいかないこともあって、指摘を受けたりアドバイスを貰う。
次回に、それが活かせるし、ヘタだったら悔しくて次のエネルギーになる。
このサイクルが何よりも大切なのだ。

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最終的な答えなんて求めなくていいんだ