2008/7/6 日曜日

二日目の月

Filed under: diary, art — takeshi @ 0:44:31

銀座の町を歩きながら、何かを誘われるように夜空を見上げると、
ビルと空中を走る高架橋の中に月が目に入ってきた。

ほっそりとした月に、何とか息をしているような、最後の灯火のような感覚を抱いた。
生きる上で必要ないものを全てそぎ落とした最小単位とでもいおうか、そんな月に美しさを感じた。

家に帰り調べてみるとそれは新月から2日目の月だった。

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2008/7/5 土曜日

自分が入れ替わる

Filed under: diary, , 思うこと, art, 人生 — takeshi @ 10:14:51

先日、バスと電車を乗り継いで長野を訪れた。
先日といっても5月の末ぐらい。

友達のアトリエと彼の家が運営する西丸記念館(@稲尾)へ。
田んぼがあり、山があり、湿原があり、家の前には湖があるという素晴らしい環境。

友達のご近所さんの田植機が壊れたというので、田植えを手伝うことになった。
産まれて初めての田植え。それも手植えだった。
田んぼに素足を入れたとき、ひんやりとした柔らかさを感じた。
土の肌理が細かいなと。
柔らかい水の含んだ土に足を包まれるのは、こんなにも幸せなことなのかと満たされた。
とても心地よい時間だった。

まっすぐに植えるのはかなり難しかった。
田植えをしながら、いろいろな話を伺った。
機械で植えるよりも、人の手で植えた方が育ちやすいとか、田植えをしている田んぼでとれる米の量など。

この田んぼでとれる米の量を聞いて驚いた。
なんとその田植えした水田では200キロの米が取れるという。
さて、どれぐらいの米かを考えた。
1日1合食べたとして、1合は180グラムでと計算すると、人間は年間に60キロぐらいの米を食べる。
何と、自分の体重と同じぐらいの米を食べるのだ。
冷静に考えれば当たり前だが、こうやって実際の重量で目の当たりにするとすごい。
食べるものの重量と自分の体重を比較する。
そして、それが自分の体重と同じぐらいなのだ。
米だけで考えても、僕の体(全ての肉体)は米と入れ替わっている。
僕の体は食べ物によって常に入れ替わっていることを実感した。
自分の体は食べ物でできているんだと、改めて強く感じた。

そして、その体を作っている米に感謝した。
そして土ってありがたいな。と改めて思った。
僕が生きることを支える米を作るのが土なのだから。

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2008/7/4 金曜日

植村直己物語 彼がどうしても大切にしたい気持ち

Filed under: , 思うこと, art, 人生 — takeshi @ 1:08:27

植村直己物語をやっと見た。
やっとという表現が、本当にしっくりくる。
何年も前に映画化されたものを。
彼の生きることに対する姿勢に、本当に心から敬愛している。

そんな映画の中でのワンシーン。
彼がどんなことがあろうと譲れない、その気持ち。
彼がこの信念を破ったら、生きていないことと同じなんだろうと思う。

「みせもんなんかじゃない、
人間が自然と戦って、
どこまで耐えられるか、その限界に挑むことなんだよ。
知恵と体力を振り絞って、
生きることへの限界を試すことなんだよ。

金使って近代的装備の助けを借りることがいけないって言うんだったら、
登山だって同じじゃないか。
近代的装備と集団の力さえあれば、今は登れない山なんてないよ。

でもそういう登山は、人間を歯車にしちまうんだよ。
俺が感じたいのは、たった一つのこの体。
たった一つのこの頭なんだよ。
生きる最小単位としての俺自身なんだよ。」

2008年3月5日

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2008/7/2 水曜日

バナナを手に取った、そして宇宙のはじまりを知った

Filed under: diary, 思うこと, art, 人生, テクノロジー — takeshi @ 0:45:21

バナナを手に取るという日常の何気ない行動も、宇宙のはじまりも実は同じこと。
どちらにもその瞬間に次元は生まれ、世界のはじまりがある。
「バナナを手に取った、そして宇宙のはじまりを知った」

宇宙のはじまりは無だったのか?時間も空間もないとは何なのか?
人間の意識とは何か。人間というものの進化の過程はどうなっていたのか?

そんなことを語っていたときに、気がついたこと。
宇宙のはじまりって後から理由付けをしようとするからたいそうなことに思えるが、本当は何気ないことだったのではないか。
日常の一コマにある、バナナを手に取るということ。そんな行動と宇宙のはじまりは何ら変わらない。
おそらくそうなんだろうと思う。
バナナを取るという行動によっても、新たな次元が生まれ、世界が生まれている。
友達3人ですき焼きをした後、夜中まで語った水曜の夜。

まあ、これだけ読んでも意味が分からないと思いますが、この時は本当にバナナと宇宙のはじまりがつながったのです。
2008年3月5日

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2008/7/1 火曜日

感動をつくれますか? 久石譲

Filed under: diary, art, 写真, — takeshi @ 1:25:09

「努力して美しきものを生み出せる人々っていう」昔のエントリーでは久石さんのことを思って書いた。

久石さんの曲では菊二郎の夏の「summer」やあの夏、いちばん静かな海「Silent Love」キッズリターン「KIDS RETURN」や「MEET AGAIN」そしてAsian Dream Songなど最高に好きな曲がいくつもある。特にsummerなんかは最高だ。自分のプロフィールの好きな音楽にも「久石譲」と書いてあるぐらいだ。

他にも好きな曲はある。久石さんの作る曲は本当に素晴らしい曲ばかりだと思う。そんな風に常に継続して素晴らしい、美しい曲を作り続けている。

そんな久石さんを見ていると、努力して音楽を作り出しているような気がする。久石さんに会ったこともなければ、話したこともない。本も読んだことがない。ただ、少しテレビで見たことがあるだけ。久石さんのことを何でイメージしたと言えば、数回のテレビと様々な映画音楽やCM音楽を作っているという事実から。

特に、映画音楽などを作っているその数やクオリティなどを勝手に自分で解釈して、久石さん像を作り上げていた。そんな風に勝手に僕が想像した彼は、努力して美しいものを作り続けられる人。ビジネスの世界でもベストな音楽を作り続けられる人。すごい人だと思っていた。そんな久石さんは、どんなことを考えて、普段どんな行動を取っているのか知りたいと考えていた。

先日、本屋でうろついていた。時間がある週末は本屋をうろつく。これが欲しいと思って本屋に行く時もあれば、何となく行くこともある。本屋が好きだから、理由もなく行く。
だいたい毎日本は読むが、毎日本を買っている訳ではないので、たまに本を大量に買うことがある。先日も10冊ぐらいまとめて買った。これで、しばらく買いにいく時間がなくてもダイジョウブなのだ。

そう、そんな目的もなくふらっと行った本屋で、いろいろと本を眺めていた。すると、久石譲「感動をつくれますか?」という文字が目に入った。僕は即買いだった。タイトルで買う時もあれば、著者名で買うことも、本文を少し読んで買うこともあるが、今回は著者名「久石譲」をみてすぐに買うことを決めた。

この本を読んで、彼はビジネスの世界で美しい音楽を作り続けることを自分の領域として割り切っていると感じた。その姿勢を尊敬した。その前の30歳ぐらいまではミニマル・ミュージックという前衛音楽を突き詰めていいたらしい。自分が完璧だと思う芸術的としての音楽を追求していた。現在の方向性とは大きく異なる。僕としては、どちらの姿勢も覚悟の決まった途轍もないことだと感じる。自分の体の奥底から湧き出てくるものを表現することも本当にすごいと思うし、何らかのオーダーがあり期日があっても美しいものを作り上げる、これもまた本当にすごいと思う。意識的に美しいものをつくり続けられる人ってすごいと思う。

本自体は文章ごとにつながりがあまりなく、分断されている感じがするし、文章もあまりうまいとも思えない。さらに、もう少しこの内容について突っ込んだ考えを読みたいと思う箇所が多いのも事実。ただ、そんなことはどうでもいい。彼は文章書きではないのだし。ただ、取り上げていることやその考えは、僕にひとつひとつが突き刺さってくる。自分もそうしたいと思っているのに、目を覆っているような自分の価値観やこうしたいという気持ち。それがいくつもいくつも書かれている。そして、それらを久石さんは実行している。圧倒的にすごい。

自分の情けなさを気づかせてくれるし、取り上げられている考えや価値観、そして行動指針のようなものを自分なりに深く考えるきっかけをくれる。僕の考えている(憧れている)価値観のかなり多くに触れられている。自分の価値観や姿勢について、ちょっと横に置いてあったことを再び考えるきっかけをくれる一冊。

一部引用

仕事は”点”ではなく”線”だ。集中して物事を考え、創作する作業を、次へまた次へとコンスタントに続けられるかどうか。 ー中略ー 優れたプロとは、継続して自分の表現をしていける人のことである。

自分の曲の最初の聴衆は自分だ。だから、自分が興奮できないようなものではダメだ。 ー中略ー 最初にして最高の聴き手は、自分自身なのである。 

理論が肥大すると、実質は瘦せる。

どうやって音を節約するか、無駄な音を省くかをひたすら考えることになった。

譜面を書かなくなったことで、逆に感覚的なものが磨かれた。譜面を書くことが作曲家の仕事ではなくて、音楽をつくる一プロセスとして譜面があるというだけ。

理念には限界がないが、現実には限りがある。

潟若菴遵潟del.icio.us菴遵
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