文字が文字である必要がなくなる日

TOEICで鉛筆かシャープペン、そして消しゴムが必要になり、探してみた。
すると、見つからない。

やっとこさ見つかったのは、10年以上前にスタンフォード大学で買ったシャープペン。グリップのゴムがネチョネチョするぐらい、使っていなかったようだ。

そうか、文字を書いて消すということがなくなった。おそらく10年以上は書いて消してという作業をほぼしていない。

あるとすれば、ホワイトボードぐらい。あとは、旅に出た時はボールペンで日記をつけるが、それ以外はすべてキーボードによるタイピングだ。

タイピング95%、ボールペン2%、ホワイトボード2%、その他(鉛筆・筆ペンなど)1%ぐらいか。直感的で、エビデンスがあるわけではない。

そっか、あたりまえだけど鉛筆で字を書かなくなったなと思う。それをきっかけにいろいろ考えていたら、文字が文字である必要がないのではないかと思えてきた。

本→新聞→雑誌→テレビ→漫画→アニメ
ホームページ→ブログ→2ch→SNS→twitter→LINEのスタンプ→vineなどの動画

テキストコミュニケーションはなくなりはしないが、よりテキスト量は減り、絵や動画のような非文字情報が増えていっている。それは、主に雰囲気や感情を伝える場合に多用される気もする。多分この流れは継続するはず。そう考えると面白いもんで、人間が文字を発明する前は、壁に絵を書いて記録していた。それが再び複雑な文字を経て、絵に回帰しようとしているのだろうか。もともと、絵だと直感的に言葉がなくても伝わるから、古代の人は絵を描き、記録した。しかし、人間が絵を描くのに時間がかかるし効率が悪い、人によって絵の上手い下手もあるだろうから誤解の可能性もある。ということで、簡易的な文字が生まれたと推測される。文字は、上手い下手はあるが、指し示すものは特定のものに限るので、誤認のリスクも減ると。

ただ、再び文字から絵に回帰しているのは、デジタルの世界が発展し、絵を人が描かなくてもキリンと入れれば動物のキリンの絵が変換されて出る時代だから。で、なんで、同じキリンを示すのに、絵が使われるか。より多くの情報を絵が持っているからだろう。キリンにしても、大人のキリンか子供のキリンかは「キリン」だけでは分からないが、絵なら1発で分かる。走っているキリン、何かを食べているキリン、それも1つの絵で完結する。さらに、キリンは1つの動物をさすが、イメージするものがずれるリスクが有る。絵を示せば、イメージがずれるリスクが減る。こんな理由ぐらいか?あとは、絵の方がかわいいとか、絵の方が言いづらいことでも言いやすいとかかな。

まあ、白川静先生の本を読むと、この辺りも書いてあるのかな。買って読んでない本でも読んでみよう。

で、話を本題に戻す。手で文字を書かなくなったということは、今のような文字でなくてもいいと思うのだ。あれは、手で鉛筆や筆で書くのに適している文字。筆で書く文字のスタイルと鉛筆で書く文字は、同じ漢字などの文字でもスタイルが違う。行書体とか楷書体とか。英語もブロック体と筆記体とか。

ということは、これだけキーボードでタイピングする時代になったのであれば、今の文字というものがぜんぜん違うスタイル(形)になってもいいのではないか。

すでに、ビールと入れれば、LINEなどはジョッキビールのイラストやスタンプが出るが、これがもっともっと進化すれば、文字コミュニケーション(聞くのではなく、見るコミュニケーション)における、文字の形は変わってもいい。

あくまで、手で書くのに適したスタイル(形)が今の文字であっただけなので。それは、絵文字かもしれないし、もっと情報量の多い新しい文字かもしれない。新しい文字(現在の文字に取って代わるサイン)が発明される日も、実はそう遠くないのかなと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です