僕らは記憶を見て生きてきた

見えないものを、見えると思い込んでいた。
明るい世界から、真っ暗な闇の世界へ。
特に、見えるとか見えないとか意識することなく、その明暗の異なる世界を行き来する。

真っ暗な闇の世界は本来見えないはずだ。
でも、見えると思い込んでいた。

見えないのに見えると思い込んでいるということは、何かしらを見ていたわけだとも考えられる。
その何かしらとは、記憶だと思う。

おそらく15年だか20年ぐらい、真っ暗にしてお風呂に入っている。
湯船に浸かる身体・精神へのプラス影響とか、1日一回真っ暗な空間で視覚を閉ざし、無になることのメリットは計り知れないと思っているのだが、いつも書いていることだから、今回はさておき。

真っ暗な風呂の中で何も見えないはずなのに、見えていると思い込んでいたのは、記憶を見ていたことにほかならない。

そうか、人間は今を見ていると思っているけれど、日常生活でも半分ぐらいは記憶を見ているんじゃないかと。特に日常のよく見る風景は、目の前の出来事をほぼ見ていなくて、記憶を見ている。だからこそ、歩きスマホができたりする。記憶の地図(空間地図)を頼りに自動車や人だけを見ている。過去の地図と今の人や車の動きを重ねあわせてみているから、実質的に視覚および視覚に伴う脳の利用率は低くなる。本来なら空間を見ていた視覚とそれに伴う脳はスマホに使われている。

ついでに、初めて訪れる場所や景色に興奮する。南の島の少年が雪を見る。山奥に住んでいた少女が海を見る。砂漠を見る、ジャングルを見る。新しい刺激を脳が受ける。その瞬間は記憶の映像や空間記憶が全くない世界だから興奮する。ただ、似たような景色であれば、過去の類似イメージ記憶が想起され、衝撃だとか刺激は少ない。

ああ、僕らは記憶を見て生きていて、今を生きているということには変わりないんだけれど、同時に過去も生きているんだなって思った。そんなことを風呂に浸かりながら考えていた。

http://teratown.com/blog/2015/06/28/見えない世界を見る/

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