月別アーカイブ: 2015年9月

興味ありなしではなく、興味なしでも根源的に価値のあること

清潔であること。

例えば、部屋をcleanに保つこと。
こまめに掃除をして、清潔にすること。

正直、そんなに得意ではない。

山とか、遊びにはワクワクするが、部屋を掃除するという行為に興味がそこまでない。
だから、常に綺麗とは言いがたい。
最低限やるぐらいだ。

ただ、北千住周辺に住んでいるリクルートの友だちがいて、彼が周辺のOBOGを集めて飲むというので誘ってもらった。
なんと2次会はうちでやるかもと連絡が来た。
まあ、そりゃ掃除をするw

で、夜、家に帰ってから掃除をして、ゴミを出す。
そこそこ綺麗になったとおもい、いつもの様に寝る。

翌朝、起きて歯を磨こうとすると、なんだか気持ちがいい、さわやかな気持ちだ。見てみると、洗面台がピカピカ。視覚的に意識するまえに、空間の雰囲気として気持ち良いなと感じた。オーラというやつか、なんといっていいか分からないが、空間がプラスの雰囲気を持った感じ。

人間は、本能的に清潔であることを望むのだろう。人間が病気にならないためとか、単純にそういった理由が背景かなと思う。

まあ、そんな清潔でなくても、特に気にしない。海外を色々旅して、まあ汚くても特に問題なかったし、それを気にしていると旅ができないし。
ただ、興味がないからといって、清潔であることに価値がないわけではなく、本能的に清潔であることに価値を感じている。
価値を感じているというよりも、清潔であることに気持ちよさを感じている。

って、ことは、常に清潔に保つことが、人間の精神にプラスに働くんだなと学んだ。

食べることが重要、お風呂に浸かることが重要、運動が重要、睡眠時間を確保することとか、今まで当たり前のことを大切だと学んできたことのひとつかな。

keep clean

美しさとか服装ってのもそうなのかもなーと思う。
赤い服は戦闘的になるとか言うけど、無意識的にそうなるんだろうし。

プライベートなことは、興味ありなしで決める。
基本的に間違っていないと思うが、興味がなくてもやるべきことがある。そのひとつが、清潔に保つこと。無意識の中で、それに価値を感じて精神的にプラスに働いている。そんな当たり前のことをこの歳にして学んでいく、そんな未熟な人間である。

送信者 三宅島2015

職業としての小説家ではないが、趣味としての小説家になってみたい

村上春樹『職業としての小説家』

村上春樹さんとの出会いは、走り始めた頃に、「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んで感銘を受けたことだ。普通は小説から入ることが多いかもしれないが、僕は走ることについて語ったエッセイが出会いの一冊だった。走ることにハマり始めたタイミングということもあって、村上さんが走ることに対する思いや理由、そして走っている時に感じる感情の機微を、細かに表現されていて、強く共感したことを覚えている。その後、いくつかの小説やエッセイを続けて読んだ。が、僕の中で「走ることについて語るときに僕の語ること」を超える作品はなかった。

数年、村上さんの作品を読んでいなかったが、ずっと気になる存在であることは変わりなく、新作が出ると気になっていた。

2,3ヶ月ほど前、クリエイティブライティングでお世話になった新井さんと食事をしていると、社運をかけて村上春樹さんの「職業としての小説家」という本を作り上げた。と話してくれた。本や雑誌不況の中、新井さんはSWITCH、coyoteの編集長をし、MONKEYという雑誌もSWITCH PUBLISHINGから出している。単行本も毎年いくつか。20年前のように雑誌が売れる時代でもないし、広告もつきにくい。coyoteも一回休刊している。しかし、新井さんの思いが復刊へと導いたほど。

そんな時代背景の中、村上春樹さんの本を出すという。出版業界の中では、村上春樹さんは大御所で前払い制というのはよく知られているし、普通の作家よりも取り分が多いというのは周知の事実。ただ、そんな目先のお金のことよりも、新井さんは村上春樹さんの「職業としての小説家」を世に出したかったのだろう。もっと私的な視点で言えば、新井さんが小説家としての村上さんの考えを聞いてみたかった、知りたかったということなのかもしれない。

新井さんと話しながら、新井さんの編集者、インタビュアーとしての強い思いを感じたのだった。出た際には、すぐに買って読もうと思っていた。

しばらくして、茂木さんが、職業としての小説家を献本されて、非常に良いとFacebookに書いていた。あまり、この本が良いと書く人でもないので、本当にいい本だと思ったのだろう。茂木さんもしばらく前から、小説を書きたいと話していたから、ちょうどこの本が刺さったのかもしれない。

販売初日に本屋へ買いに行ったら、帯に柴田元幸さんのコメントが。ムーンパレスなど大好きな小説の翻訳者だ。ああ、揃った。これだけ、好きな人が揃う本ってないなと。

さっそく、楽しく読ませてもらった。

改めて思うのが、村上春樹さんの世界の捉え方が好きだ。この世界をどのように見ているか、どのように解釈しているか、そしてどのようなスタンスをとるか。自分の価値観、考えに基づいて独立しており、でも世界の強い部分も弱い部分も含めて、等しく捉えてやさしく包み込む。いがみ合うのではなく、妬み合うのではなく、正々堂々と前を向いて生きていこうじゃないか。そのためにも、そして口だけじゃなく、自らを律している姿勢がなんとも清々しい。

だいたいにおいて、人をの好き嫌いは世界の捉え方、そしてそれを踏まえてどう行動しているか。これが、素敵な人や共感できる人を好きになるんだなと、この本を読んでいて思った。

そして、僕は小説家ではないが、小説を書いてみたいと思い始めた。本を3分の2ほど読んだ頃、ふと小説というスタイルで表現してみたいと突然ふってきたのだ。

どんなことであろうと、なかなか考えていることが伝わらない。仕事でも趣味でも、プライベートでも、これは、誰しもそうで、永遠に自分の思いは伝わらないものだ。そんなことは、分かっている。具体的な例や喩え話をつかって伝わりやすくする。手段としては正しいが、これでも伝わらない。何をしても伝わらないのは分かっているが、僕の表現のような説明的な文章だけではなく、ストーリーや世界観を醸成したうえで、メッセージを伝える小説的なアプローチも試してみたいな。そう思ったのだ。

もちろん、絵やスポーツ、音楽も同様にアプローチのひとつではあるが、この本を読んで小説というものを書きたくなった。

ドッグイヤーを無数につけたので、気になった文章を引用しきれない。。。ということで、ぱっと開いたページの言葉

P42

しかし、理由はともあれ、とにかくそれが起こったのです。それは、なんといえばいいのか、ひとつの啓示のような出来事でした。英語にエピファニー(epiphany)という言葉があります。日本語に訳せば「本質の突然の顕現「直感的な真実把握」というようなむずかしいことになります。平たく言えば、「ある日突然何かが目の前にさっと現れて、それによって物事の様相がいっぺんしてしまう」という感じです。

P98

これも自分自身の経験から言いますと、すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのがひとつの基準になるだろうと思います。もしあなたが何かを自分にとって重要だと思える行為に従事していて、もしそこに自然発生的な楽しさや喜びを見出すことができなければ、それをやりながら胸がわくわくしてこなければ、そこには何か間違ったもの、不調和なものがあるということになりそうです。そういうときはもう一度最初に戻って、楽しさを邪魔している余分な部品、不自然な要素を、かたっぱしから放り出していかなくてはなりません。

P141

長い仕事をするときには、規則性が大切な意味を持ってくるからです。かけるときは勢いでたくさん書いちゃう、書けないときは休むというのでは、規則性は生まれません、だからタイムカードを押すみたいに、一日ほぼきっかり十枚書きます。

P187

僕は生きて成長していく過程の中で、試行錯誤を重ねつつ、僕自身のやり方をなんとか見つけていきました。

P238

だからこそ僕は、いろんなサイズの自分のものではない靴に自分の足を入れ、それによって、今個々にある自分を総合的に検証していることになるのかもしれません。

P285

現実社会のリアリティーと物語のリアリティーは、人の魂の中で(あるいは無意識の中で)避けがたく通底しているものなのです。どのような時代に会っても、大きな事件が起こって社会のリアリティーが大きくシフトするとき、それは物語のリアリティーのシフトを、いわば裏打ちのように要求します。
物語というのはもともと現実のメタファーとして存在するものですし、人々は変動する周囲の現実のシステムに追いつくために、あるいはそこから振り落とされないために、自らの内なる場所に据えるべき新たな物語=新たなメタファー・システムを必要とします。その2つのシステムを上手く連結させることによって、言い換えるなら主観世界と客観世界を行き来させ、相互にアジャストさせることによって、人々は不確かな現実をなんとか受容し、正気を保っていくことができるのです。

P304

ちなみに僕の場合の「悪魔祓い」は走ることです。かれこれ三十年ほど走り続けているんですが、毎日外に出て走ることで、僕は小説を書くことで絡みついてくる「負の気配」をふるい落としているような気がします。

P304

僕らが会って話をして、でも何を話したかほとんど覚えてないと、さっき申し上げたわけですが、実を言えば、それは本当はどうでもいいことなんじゃないかと思っているんです。そこにあったいちばん大事なものは、話の内容よりはむしろ、我々がそこで何かを共有していたという「物理的な実感」だったという気がするからです。我々は何を共有していたか?ひとことで言えば、おそらく物語というコンセプトだったと思います。物語というのはつまり人の魂の奥底にあるものです。人の魂の奥底にあるべきものです。それは魂のいちばん深いところにあるからこそ、人と人とを根元でつなぎ合わせられるものなのです。

できれば長いほうがいい

信越五岳が終わり、UTMFが始まる。
そんな、日本のトレランという、小さな世界だが、ここにおいてはBIG WEEK。

快晴の信越五岳。
雨の中スタートしたUTMF。

雨の予報で2箇所もコースが変わり、山がショートカットされた。
にも関わらず、早々にリタイアが700人とか。
リタイアした人を輸送できないからって、関門を1時間伸ばしたという話も出ている。

今回はつらいレースだ。
長ければ長いほど、いろいろなトラブルが起こる。それは、自分自身にも天気を含めた環境にも。

それをどう乗り越えるか。唯一使えるのは自分の肉体のみ。
170キロという距離を2本の足を交互に動かすことによってのみ、乗り越えられるという戦い。

でも、足だけではない。
上半身や腕、頭も使う、ウェアのチョイス、補給食、仲間の応援、関係者の運営。

悪戦苦闘している状況をfacebookやyoutubeやinstagramなんかで見ていると、いいなと思う。あの孤軍奮闘している感じが。UTMFみたいなアップダウンがある100マイルレースがもっと日本に増えればいいのになー、と思う。抽選とかじゃなくて、気楽にエントリーできる100マイルが。

なんて、ロングトレイルを走っている時は、もう最後かなと思うが、しばらく経つとどうしてもまた出たくなる。
トレラントは二郎みたいなもんだと、つくづく思う。

考え方と行動と年齢と。人生はf(x)=ax+bのa

写真家の操上さんが80近いことに驚く。
ほぼ日で糸井さんと対談されていて、それを読んでいたら糸井さんより10歳ぐらい上という話題が出てきて、えっと驚いてプロフィールを見たら1936年生まれ!
60歳ちょいだと思っていた。

年を重ねると差が大きくなる。
例えば、三浦雄一郎さんも80だし。
80歳のほかの人を見ると、ぜんぜん違う。
正反対な80歳の人もいるし、平均寿命からするとなくなっている人も多い。
もちろん、病気だったりいろいろあるのは承知のうえで。
でも、考え方、生き方(行動)次第な部分も大きいと思う。

5歳の幼稚園児のアウトプットは大差ない。
小学生や中学生になると、能力の差は徐々に出始める。
高校大学になると、能力差が顕著だ。

ビジネスマンとして新卒の22歳は大差がない。
30歳になると明らかに異なってきて、
40歳ぐらいだとビジネスマンとか社会人として能力が決定的に異なる。
60歳で元気な政治家や1部上場企業の社長もたくさんいる、そうではない人もいる。

(※小さな子どもの個性という意味での差はあると思ってます。)

それは、時間が立つに連れて、一人ひとりに差が出てくる。
これって、日々の考え方、行動の積み重ね。
関数で表現すればf(x)=ax+bのaが異なる感じ。

xはもちろん時間(time)でbは生まれ持った先天的な能力だったり環境。
aがその人個人の考え方や価値観、それに伴う行動とか。
逆に言えば、「a」だけが、その人次第で変わるもの。
怠ければ「a」の傾きは低くなる。

結局のところ、この一次関数が表現するように、timeはみんな等しく与えられるので、大きな差がでるのは「a」なのだ。
すなわち、考え方、スタンス、価値観とそれをいかに愚直に実行するかという「a」がポイントかを痛感する。
自分自身で「a」の傾きをいかに上げるか。

信越五岳を走ったばかりだから、こんな例えになるが、xの時間は等しく与えられているが、負荷のかけたトレーニングをするか、家でのんびりするかで「a」は決まり、結果としてのf(x)が決まる。長いスパンでもこの1次関数は成立するし、もっと短期間のレースにおいても、その瞬間を走るか歩くか。それによって「a」が決まる。

高度経済成長期でもないし、仕事や勉強ができることが全てではないと思っているので、f(x)の解は人それぞれ全然違う。ただ、どんな人生を歩むにせよ「a」は個人によって変えられる。

ほぼ日
http://www.1101.com/kazumi_kurigami/2015-09-15.html

年の重ね方
http://teratown.com/blog/2013/01/06/ciaiey/

久しぶりのレース、信越五岳に出て

5連休のシルバーウィーク後半は、信越五岳トレイルランニングレース2015に参加。2011年以来2回め。最高の天気と最高の仲間と楽しい時間を過ごした。そして、俺は1年半振りのロングレース。そもそも1年半振りのレース。

ただ、練習も大してしてない、はじめての100キロとか、タイムを狙うとかチャレンジがないから思い入れもないというのが正直なところで、まあ、よろしくない。淡々として終わってしまった。がむしゃらに走っても潰れるだけだし、飛ばし過ぎず、疲れないスピードで淡々と走るのがゴールするにはベストなので、仕方ないが。。。ゴールしても特別な感情はなく。。。

とは行っても、最初の5キロぐらいで蜂に刺されたり、最後の15キロぐらいの瑪瑙山で低体温症になったりと。まあ、こうしたアクシデントに対して冷静に対処するという経験はできた。

自分の性格は、新たなものに常にチャレンジして、それをクリアして喜びを得られる。それがないと、どうもワクワクできない。もちろん、気心知れた仲間と一緒に楽しめたというのは、いい時間なだったんで、それですべて満足かな。

なんで、信越五岳に出たか。振り返ると、2泊必須で、エントリーフィーも安くはない。そして、このコースは人気が高いけど、個人的に好みじゃなかったから、1回出ただけで終わっていたのだ。トレイル率は高いが林道っぽいのが多く、特別眺望が良くない。個人的にはガッツリ登るのが好き。ハセツネとか。ただ、アコンカグアメンバーが参加して楽しそうなので、一緒に行こう!そんなノリ。

21日(月)の7時に東村山駅集合で、目指すは斑尾高原スキー場。4.5時間で到着。11時30分では、受付もやっておらず、戻ってそばを食べに。他のメンバーも集合して。それから、受付を済ませて、トレラン友達や弘樹さんなどと話、ホテルに。さっそく、5Aのデポや服を準備。そして、夜のパーティーへ。心折れ部の仲間やその他のトレラン仲間などと楽しく時間を過ごす。

送信者 信越五岳2015

明日も速いので、ホテルに戻ってすぐに寝る。8時過ぎには就寝。3時30分に起きて準備。今日は天気も良いし、寒くない最高のコンディション。練習をしていないので、足ができていない。筋肉がない。そして、長距離の感覚を忘れている。そこで、ゆっくり目にスタート。

筋肉が落ちているので、HOKA ONEONEの厚底シューズかつすり足走法でいく。これは、筋力がなくても腰とか骨盤、腕や上半身も動かして走るから筋力に頼らない。足も大きく曲げたり、蹴りださないから、膝なども全く痛くならず。ロングレースも何度も経験して、自分なりの方法が隔離されつつあるので、辛さとかも正直あまりない。

スタート直後朝焼けと雲海が美しい。そして、友達が声をかけてくれると元気になる。スタートしてそうそう、最初の5キロぐらいでハチに刺された。おしりがチクっとした。あ、ハチだ。自分が刺されるとは思わなかったが、毎年10人ぐらい刺されている。ポイズンリムーバーを出すが、おしりで自分ではできないので、通過した竜太さんにお願いした。

過去に友達もハチに刺されて完走しているので、特に走ってもいいと思ったが、運動していると血流がよく毒が体に回りやすそうで、不安。そこで、刺されたところを手で摘みながら、ゆっくりと進み1Aで再度ポイズンリムーバーで毒を抜き、消毒&薬を塗ってもらった。走っても特に問題ないと。噂では菊が黒はダメ、黒いパンツはもう履かない。

気を取り直して、2A、3Aへと。胃腸の調子もよく、エイドではあるものをたくさん食べる。見晴らしがいいところからは、湖や遠くの山々が美しい。そして、頂上に来ると爽やかな風が流れる。やはり、山っていいなと思う。

前半の急なスキー場の下りは歩いたほうがいい。太ももの前にダメージが大きい。最近の最長は30キロだったので、40キロ過ぎからさっそく足に疲労が。ああ、まずいと思いペースを落とし、フォームをすり足度合いをさらに上げた。まあ、距離も長いし、慎重に、疲れないように、膝が痛くならないように、ハンガーノックや塩分不足にならないように。もちろん日差しが強いので、帽子で直射日光を避ける。

以前よりも遅いペースだなと思いながら、完走が目標なんで急ぐことはしなかった。5Aに到着しt、たくさん食べる。心折れ部の仲間にカップラーメンをもらったりと、いろいろサポートしてもらった。ロングレースは、こういったサポートが本当に助かる。自分は、全部荷物を持ってサポートがなくても完走できるように常にしているが、サポートは嬉しいもんだ。話すだけでも気分が晴れる。

5Aで食べ過ぎて、お腹タプタプ。泥が水分が含んでグチョグチョゾーンが続く。できるだけ避けて進む。ゆるい坂も耐えて走る。ゆっくりペースだと登りも走ることができた。テンションを上げるために、音楽も聞きながら。でも、いつもより音楽無しでも、ほとんど無心になって走っていた期間が今回は長かった。なぜ、音楽が必要なかったのか、これは今回一番気になったところ。なぜだろう。

そして、後半はペースが落ちるとカフェイン入のジェルを。ずっと昔に買って余っていたものを全部消費するぐらいの勢いでとった。それもあってか眠くならなかった。1度走っただけだが、覚えている道も多く、懐かしかった。前回は戸隠神社でヘッドライトをつけたが、今回は6Aですでにつけ始めた。ああ、遅いんだなって。

まあ、あくまで淡々と。がむしゃらになるよりもベストなのが一定ペースで走ること。8Aを出てからが長かった。寒くなかったので半袖でいた。しかし、瑪瑙山の登りがスピード出ず低体温症になっていた。だが、自分では気付かなかった。眠たいのか、腹が減ってハンガーノックなのか。だいたい、頭がボーっとするときってこの2パターン。ということで、どちらにも効果があるカフェイン入ジェルを飲む。しかし、復活しない。なぜだ。もう1本。しかし、手がしびれるし、頭がボーっとする。まずい、あ、そうか。低体温症かもしれないと思って、持っている服を全部来た。手袋も。フードで頭も覆う。そして、たくさん持っている食料をひたすら食べる。

これで外から中から体を温める。すると、しばらくして復活した。低体温症になりかけていたのだった。まあ、早めの対応で良かった。そこから、また走り始める。ただ疲れている事もあって90キロ過ぎからはスピードが出ない。頂上の明かりを見ると、その遠さに気持ちが負けるので、今の目の前の一歩に集中。

まあ、瑪瑙山もクリアして、最後の山もクリアして、林道に。ここまできたなーと感慨深くなってもいいが、あまりそんな気持ちもなく。チャレンジ感がないからだ。1回めの信越五岳の時は嬉しかったな―って。だからこそ、興味を持ち自分が経験ない新たなことにチャレンジしていきたいなと痛感。

ゴールでは、友達が出迎えてくれた。これは、ほんとうに感謝。体をボディータオルで拭いて、着替える。みんなのゴールを迎えるが、外は寒いので着こみまくって。それにしても、満身創痍。魂が抜かれたようになった。ゴール後に、こんなにも疲れ果てたことははじめてだ。UTMFでもないし。何故だったのだろう。体力や筋力がない部分、テクニックや経験でカバーした。だから、実力以上のエネルギーを消耗していたのかな?

みんなのゴールを見届けて、ホテルに移動してすぐに寝た。翌日のパーティーに参加するも、今年から盾は後日郵送になったことを知り、渋滞を避け一足先に帰宅。夏の終わりのいい思い出になった。

地点 タイム 総合順位 種目別順位
1 スタート 0:00:11 161 152
2 2A(斑尾高原レストランバンフ)OUT 3:00:14 231 213
3 4A(黒姫高原)OUT 7:11:06 247 225
4 5A(笹ヶ峰高原乙見湖)OUT 10:07:55 228 208
5 6A(大橋)OUT 12:26:40 214 196
6 8A(戸隠スキー場)OUT 14:23:12 193 177
7 フィニッシュ 18:12:22 222 205

送信者 信越五岳2015