有から無になることの感情とボディシェーマ

有るものが無くなる。

物体
組織
概念
関係
感情

有形にしろ無形にしろ、存在したものが無くなる。それ自体は、質量保存の法則がある通り、物質としては存在し続ける。ここでの無くなることは、その形が変わったり、構造とか関係性が変わるということだ。常に同じもの、同じ状態のものはなく、すべてが今この瞬間も変わり続けている。有るとか無いとかってのも、何を境に判断するか、何を判断軸にするかによって、常に有と無は発生し続けているが、人間が明示的に有るから無いになった時に、反応する場合は、そこに人の感情が介在するからである。

極論、あってもなくても変わらないという側面もある。というのは、存在していてもずっと放置ってのもあるし、それなのに無くなると寂しがるとか。一方で、星野道夫さんの言葉を借りれば「もうひとつの時間」。今ここにはないけれど、確かに存在して、それを想像することができることに大きな意味があるのも事実。東京で忙しく働いて、ビジネスしか見えない時に、ふとアラスカの自然を思えば、確かにその瞬間もカリブーの大移動がなされているとか。

話が逸れてしまったが、有から無になることに感情が関わる話だ。一度、何らか「有」になると、人は愛着を持つ。これは、意思決定においては心理的なバイアスになるのだが、これは多くの人にとって避けられない。では、なぜこんなバイアスが生まれるのか。

それは、自分を愛することに根源があるのだろう。自分を愛する対象とは、自分の肉体と精神のこと。

なぜ、自分を愛するのか。物質として、離れなれない自分。肉体と精神が同一である自分は、ここから切り離されることなく生きている。自分という肉体と精神の範囲でしか生きられず、それをよりよくしたいという思いが人にはあるから。これも認識に過ぎないのだが、痛いとか、疲れたという肉体的なもの、嬉しい、辛いといった感情も結局自分に襲ってくるという意味で。

ということは、その感覚というか概念の延長が一度存在したものに対しても生まれるのだろう。

自分を育ててくれた、自分を守ってくれた、自分を楽しませてくれたということが、肉体と感情に刷り込まれ、自分の身体の延長と成っている。

家とか、車とか、組織とか、人間関係とかそういったものに人は愛着をいだくのは、自分への影響度が大きかったからだろう。

無くなるということは、自分の身体の一部がなくなること。

車の運転でも自分の身体の範囲のようの車の大きさの感覚を覚える事、赤ん坊が自分の身体の範囲をものを触ったり怪我をしたりしながら、覚えるのもそう。身体感覚の延長と呼ばれる、ボディシェーマ

たぶん、有るものが無くなることに感情が生まれるのはBody schemaというか、外部への身体および精神の拡張が原因なのではないか。

とま、長々と書いたのだが、ばあちゃんの家を取り壊すということになり、年末に久しぶりに訪れた。最後なので写真を撮ったということがあったり、組織が解散するとかいう話があったり、して考えた事。

ややこしく書いたけど、ようは家とか組織って自分の体の一部だから、寂しいとかって感情が生まれるって話しなのだ笑

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