あの時のことを振り返る

このままだと無理だなと。
楽になりたいなと思った。
たぶん、自分の体が弱っていた。
だから、ドクターに突然で下山しろと言われたとき、嫌だったけど意外とすんなり受け入れている自分がいた。

ベースキャンプに到着した日、僕は元気だった。
夕食のラーメンを食べ、寝た。
水も飲みトイレにも2,3度行った。

翌朝も元気で、少し早く起きて外をぶらぶらしたり。
朝食のたまご雑炊を作って、みんなで食べたり。
その後も、水や温かい飲み物を作るなどしていた。

体調がいい者も悪い者もいたので、午後から元気なもう一人の仲間と少し高度を上げることにした。

ただ、休息日だったこともあるので、午後からゆっくり登って、ゆっくり下山しようと話していた。
特に登る標高も決めず、行けたらキャンプカナダ、体力とか時間を見て、それより下でも戻ろうといった感じ。

本当にゆっくり登り、1歩というよりも半歩ぐらい。
20センチぐらいずつゆっくり進んだ。
あとから来た人にどんどん抜かれたし、汗も息も上がらないスピード。

分岐があった。
すぐに合流するとは到底思えないところだったので、キャンプカナダより手前だけど降りることにした。
GPSは4800メートルほどを示していた。
2時間で登ったルートを1時間20分かけて降りた。
普通に下れば30分もかからないだろう。
そこをあえて、ゆっくりゆっくりと降りた。
高山病にならないために。

ベースキャンプに戻ると、石川弘樹さんが上がってきた。
大きな荷物を抱えて。
ついつい嬉しくて駆け足で。
これでついに7人集合。

佐藤優さん率いるアドベンチャーガイズの遠征隊も到着していろいろ話していた。

ベースキャンプ到着後24時間後からしか受けれないベースキャンプ・プラザデムーラスでのメディカルチェックを受けに行った。
血圧、心拍数、聴診器での診察、SPO2などを測ってOKと。

夕食のカレーをつくろうと3,4人で料理開始。
人参の皮やじゃがいもの皮を向いていると、頭の後ろが重たくなってきた。

そう話すと、すこし高度を上げると普通そうなるよと。
水を飲んでいれば治っていくと言われ、俺もそうだなと思った。

しかし、どんどん体全身も重くだるくなる。
夕食のカレーは1杯だけ。
すぐに横になって寝た。

夜は寝れず咳が出た。
寝転んでいるとつらいので、ベッドで体操座りをした。
すると少し咳が収まった。

寝れない時間が続き、咳だけでた。
息を吸うを、肺がゴロゴロ鳴り、たくさん息が吸えない。
息を吐くとすぐ咳がでる。

もちろん自分も寝れないし、周りの仲間の睡眠も妨げてしまっている、そんな気持ちで申し訳なかった。
普段の環境よりも厳しい状況で眠れないと負担もあるし、自分の責任で仲間全員が登頂できなくなったら迷惑すぎるし、そんな責任取れない、申し訳ない。

翌朝起きても、体調は優れなかった。
昨夜は辛くて、トイレに行くこともしなかったのが、よけいに良くなかったのかもしれない。
朝、温かいお茶などを飲み、休んだ。
トイレに行ったがやはりフラフラで、全然まともに歩けなかった。
アメをなめたら、咳が少しおさまったりしたが、咳だけで頭痛や体の怠さは変わらない。

メディカルに行き、見てもらって咳止め薬をもらおうと、向かった。
リーダーのタクジさんも一緒に来てくれた。

SPO2を測ったり、体温を測ったり、聴診器で肺や心臓の音を診てもらった。
ドクターは肺水腫と告げた。SPO2は32まで下がっていた。
自分でもかなり頑張って意識を保っていた感じだった。
体温も34.9度になり、状況はすべてスウジが語っていた。
すぐにヘリで下山しろと。

なんで、昨日4800メートルまで上ったのか?と怒られた。
そして、昨日のメディカルチェックで登ったことを言わなかったのかと詰問された。

体調が良かったし、ゆっくり登ったので順化に良いと思ったと。
すぐに酸素マスクを付けられて、座らされた。

パスポートと財布だけとってこいと言われた。
取りに行こうと歩くが10歩歩くだけでも限界で、クラクラして座り込んだ。
するとドクターが駆け寄ってきて、ズボンをめくって、尻に注射をした。

僕はドクター二人に抱えられメディカルルームに戻り、酸素を吸った。
タクジさんが荷物を準備しに行ってくれた。
そして、他の仲間も心配してメディカルルームに来てくれた。

無線でドクターとレンジャーがやりとりして、15分ほどでヘリが飛んできた。
仲間が詰め込んでくれた荷物を受け取り、レンジャーに両肩を抱えられ、ヘリに乗り込んだ。

天気もよく、いい眺めだった。
2日かけて歩いてきた、赤茶けた大地と川が圧巻だった。

もちろん、歩いている登山者も見えた。
登山口のオルコネスに到着するまでに15分とかからなかったと思うが、最後に大きな大きなアコンカグアが見えた。

ヘリを降りると、救急車に乗り換えた。
寝台に寝させられ、酸素マスクをつけて。
登山のエージェントの人も一緒に来てくれて。

救急車の後部ガラスからアコンカグアが見えた。
これが僕の見た最後のアコンカグアになった。

30分ほどで病院に到着した。
平地になり、酸素濃度も高いので、かなり楽になっていた。
この病院では英語がほとんど通じなかったが、ベースキャンプでドクターが僕の状況をスペイン語で書いてくれた紙を渡した。

レントゲンなどひと通りの診察と注射、点滴、酸素マスク。
英語が話せる人(看護婦さんの弟で登山ガイド)も来てくれて、コミュニケーションした。
SPO2が65から75ぐらいとなかなか戻らない。
そこで、メンドーサの大きな病院に移ると言われた。
再び車いすに乗り、点滴を抱えながら救急車に。

なんとこの救急車はあいのり。
俺は車いす、もう一人は寝台と。
さらに、陽気なラテンの音楽が流れていた。

メンドーサに着くと、もう一人が病院で降ろされた。
俺はまだ救急車に乗っていた。
おそらく、受け入れるキャパがなくて、俺の受け入れ病院を探しているようだった。

しばらく移動して、病院についた。
裏口から入ると、スラム街かと思うような、子どもたちが裸でたむろしていた。
病院もボロい印象だった。

嫌だなと思った。
ここで手術とかなったら断ろうと。
注射針も新品かどうか、袋を破って使うか見ようと決めた。

ありがたいことに、英語を話せるドクターがいたので、しっかりと話しを聞いた。
まずはここでもレントゲンや診察など。

結果的に肺水腫であることは変わりなく、かつまだ肺に水がかなりたまっているので入院しろと。
入院病棟へ車いすで連れて行かれ、そのまま入院。

疲れていたり、昨夜寝ていなかったのもあり、いつの間にか寝ていた。
同じ病室には6つベッドがあり、骨折したっぽい人もいれば、心電図をずっと計測されている人もいたりと。

見舞いの家族や親類などがきているのが、羨ましく感じた。
夕食が出された。
飲み物がなく水がほしいといったが病院にはないと言われ、買いに行くこともできず。
すると隣の人がペットボトルをくれた。このやさしさが嬉しかった。心にしみた。

夕食メニューはパン、鳥の足の丸焼き、りんごの甘煮、人参かかぼちゃのペースト。
うまくないし、そもそも食う気がしないので、ほとんど残した。
病院食とは思えない、このアルゼンチンらしさが、個人的にはうけた。

すぐに熟睡した。
僕はそんな風に寝ている間、ベースキャンプの仲間は一人で僕を降ろしてよかったのか、そして連絡が取れず夜も寝れなかったとあとから聞いた。何をしても償えないほど申し訳なく、そしてそんな仲間と一緒に山へ行けたことがうれしかった。

翌朝起きると、だんだん元気になっており、クラッカーと紅茶の朝食をとる。

ピーボトルにしていた小便も自分でトイレに行けるようになった。
看護婦さんが点滴を変えてくれたり、隣の人と親近感が出たり。
向かいの人が入れ替わったり、退院したり。
病院の一連の動きが見えてきた。

体力的にも気持ち的にも元気になってきた証拠で、早く退院したいと思い始め、落ち着かなくなった。
携帯をいじったり、仲間が詰め込んでくれたザックを開けたり。

仲間が急いで必要なものだけをつめて、ヘリに乗る直前に渡してくれたザックだ。

財布とパスポートだけ最低限入れてくれていると思ったら、スマホの充電器、水、サンダル、着替えのシャツなど入れてくれていた。
この心遣いとやさしさに触れた時、思わず涙がこみ上げた。
心配をかけて、迷惑をかけてしあったのに、こんなにも優しくしてくれて。
俺の状況を踏まえて、必要な物を入れてくれたことに感謝した。

入院したての頃は悔しさもどかしさがあったが、まだその度合いは弱かった。
元気になり始めたこの頃から、もどかしさがつのった。
悔しくなってきた。なんで俺はこんなことになったのかと。
病院のベッドで暴れたいほど、発狂したいほどだった。
まともにコミュニケーションができる人がいなく、きれいとは言いがたい病院で。
点滴なんて取り外して、走って逃げ出そうかと言うことも頭をよぎったし、町に戻ったらヘリをチャーターしてベースキャンプに戻ることさえ考えていた。
でも、自分の理性がそれを止めた。
ただ、シーツをたぐり寄せて強く握りしめて、歯を食いしばるしかできなかった。

総回診みたいな感じで偉いドクターが来て、いつも見てくれているドクターが説明する。
まだ完全に治っていないのと、身寄りの人がここにいないからまだ退院は無理だと。。。

なんども身寄りの人を聞かれたけれど、いるはずがない。
仲間と来たけど、みんな山だしメンドーサに知り合いがいるわけでもない。
病院の風景を眺めながら、全くと気が進まない時を、ひたすらすぎるのを待った。

そして考えることは、今回のことだった。

特に、みんなが山にいて、今は5500メートルのニドコンドレスかなとか、今日はアタックだろう?とか。
今頃は、みんなでご飯を作っているだろうとか、

具体的にイメージすればするほど、悔しく、もどかしかった。
なんで、今、俺がそこにいないのかと。
どうして、一緒の場所にいられて、一緒の時間を、苦楽をともにできないのかと。
でも結局自分が意思決定したことと、自分の行動の結果が生んだことだった。
誰のせいでもなく、ただ自分の責任だった。
なんと自分は調子に乗りやすいのか、なんとあさはかなのか、未熟なのか。
見栄っぱりで、利己的な人間なのかと、ただただ反省した。

夕方になり、再度診察を受けた。
やっと退院していいとのことだった。
ただ、高い山へは行くな。
日本に戻ってから診察を受けてからにしろと、釘を刺された。

できるだけ早い時間に退院しないと宿もないし、そもそも今自分がどこの病院にいるかも分からない。
明るいうちに外に出て、寝る場所の確保などしたかった。

そして、無事に退院した。
病院の近くは町から外れている印象だった。
少し歩き、人に場所を聞いたがイマイチ。

タクシーを探した。
とりあえず、タクシーに乗り、登山の前に泊まっていたホテルの住所へ行ってもらった。
しかし、満室だった。
こういうことがあると、気持ちが落ちる。
退院したばかりの体で、別の病院を探すという精神的な負担。
もちろん一人ぼっち。

でもホテルでwifiでネットをすることができ、facebookで元気であるということを仲間に送った。
そして、メッセージを見た。

リーダーのタクジさん、石川弘樹さんからメールが来ていた。
とても心配しているという内容や、僕の気持ちと一緒に山頂へ行ってくるという内容。
うれしかったし、救われた気持ちがうまれた。

時間もないので再びタクシーに乗る。
荷物がアコンカグアトレック(Aymara)という今回使った登山のエージェントに届くというからだ。
この荷物が届けば、着替えもあるし、身動きが取れる。

オフィスの場所を思い出し、近くの公園まで行ってもらった。
しかし、同一の名前の公園が2つあるのか、違うところに降ろされた。。。
タクシーの運転手は英語が話せる訳もなく、通じないので降りて、色々な人に話を聞いて、それっぽい方角に向けて歩き出した。

こんなときについていない。
観光客が変な場所を歩いていると見つけた兄ちゃんが、後ろから俺をつけてくる。
ヤバいなと思って少し、走ると彼らも走って追いかけてくる。
10メートルで息が上がる、心肺機能が戻っていなかった。
これはまずいと思い、道路に出てすぐにタクシーを拾って飛び乗った。
セーフ。

やっとのころで、目的の公園に着いた。
それから、エージェントのオフィスへと。
しかし、土曜の夜。やっていない。
観光案内所へ行ったら、日曜も休みなので月曜日だと。。。
しかたない。
すべてをありのまま受け入れるしか、手段はない。
宿があるエリアを聞いて、歩いていった。
安い宿に泊まった。
でも、ドミトリーという気分ではなかったので、ちょっと高いがシングルにした。

レストランもやってないし、食べる気にもなれなかった。
外へ出る気にも慣れなかったので、ホテルでスプライトの2リットルを買って飲んだ。

そして、いつの間にか朝になっていた。

宿ではwifiがあり、ネットが使えた。
町へ出ても何もやってないし、荷物がないので町を出て移動することもできない。
もちろん病み上がりだし、そんな激しいこともできない。

いつもは一人でも気にならないのに、猛烈に寂しさが覆い被さってきた。
この気持ちはエクアドルのグアヤキルの宿で味わったなと思った。

ネットが幸い使えたので、日本にいる友達とやり取りしたり、多くの方から励ましの言葉をもらった。
ありがたかった。結局自分も弱い人間なので、一言がうれしかった。

もちろんベースキャンプにいる仲間ともやり取りした。
身勝手な発言で恥ずかしいばかりだが僕が、ヘリでベースキャンプまで戻りたいぐらいだと書いたあとに、戻ってきてください、みんな寺さんがいなくて寂しいですよ、と。弘樹さんが連絡をくれた。

これを見た瞬間に、一人ホテルで涙が溢れ出した。
ベッドの上で四つん這いになり、シーツをわしづかみにしながら、泣いた。
ふいに涙が溢れ出した。救われた気がしたのだ。

PTLをリタイアして、シャモニーに戻りゴールゲートにランナーが戻ってくるシーンを見た瞬間のようだった。

日曜日だったけれど、エージェントのオフィスが開いているかもと思って、3、4度はオフィスを見に行った。
もちろん開いているはずもなかった。

なんだかボッーとして、アコンカグアのことを思い浮かべながら1日が過ぎていった。
ただ、この歌が頭の中を巡っていた。
人生で初めて買ったCD。
My Little LoverのHello,Again 昔からある場所
youtubeで探して、聞いていた。

=====

自分の限界が どこまでかを 知るために
僕は生きてる訳じゃない

だけど 新しい扉を開け 海に出れば
波の彼方に ちゃんと“果て”を感じられる

僕は この手伸ばして 空に進み 風を受けて
生きて行こう どこかでまためぐるよ 遠い昔からある場所
夜の間でさえ 季節は変わって行く

雨は やがて あがっていた

=====

月曜日になり朝イチでエージェントへと向かった。
オフィスは開いていた。
しかし、本当に荷物が届くのか限りなく不安だった。

聞くと届いているという。
ただ50ドル払えと。
そうしたら、すぐ出てくるよと。
マジかよと思って払うと、10分ほどで兄ちゃんがやってきてついて来いという。

オフィスを出て、路駐してある車のトランクを開けた。
すると、ぼろぼろで誇りだらけのザックとダッフルが出てきた。
俺のだ。
でも、何やらスカスカで小さい。

オフィスに戻り中身を見ると一部なくなっているものもあったが、まあ、大半は入っていた。
よかった。ほっとした。

荷物が大きいのでタクシーに乗りホテルへ。
そして、アルゼンチン航空のオフィスへ行き、パタゴニアへのチケットを買った。

ベースキャンプに戻りたかったけれど、医者にもNG出されていたし、メンドーサで仲間を待つことも考えた。でも、やることがないのと、一人で待ち続けるのもつらい。

ウユニでも、イースター島でも、イグアスの瀧でも良かったのだが、フィッツロイが見たかった。
そして、パタゴニアという場所へ行きたかった。理由はその土地へのあこがれのようなもの。

夕方の便でブエノスアイレスに飛ぶために空港へ。
メンドーサを離れる。
それも、こんなにも速く、そしてたった一人で。
悔しかったし、寂しかったし、優しくしてくれた仲間をおいていく感じもして、複雑な気持ちになった。
飛行機に乗る時、また目頭が熱くなった。

こうして、あの時は終わった。

送信者 Aconcagua&Patagonia

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