死の中にも生が内包されている

昨日、日比谷公園のオクトーバーフェスで芝生に座りながら、話しながら、飲んでいた。

空には、満月かと思うような大きな月が輝いていた。
でも、満月になる1日前の月。
真ん丸くないからこそ、真ん丸よりも美しく感じる月だった。
それは、三日月にならない、二日月のぎりぎりの存在感と似ていた。

帰りの電車で、考え事をしながら、ふと思いだすことがあった。

生の中に死が内包されているのは分かるが、死の中にも生が内包されていること。

というのは、生きていても、いつ死ぬかもしれない。
町を歩いていても、車が飛び出してひやっとしたり、突然の病気だったり、自然の中での危険だったりと。
寝ている時間というのも死に近しいものかもしれない。

生きていながらにして、死は身近な存在としてあり、かつ自分の心の中に死がつねにある。

一方で、死の中にも生があるんだと思った。気づいた。
生死の共存。

例えば、100年という長寿の方がいた。大きな病気もなく、元気に暮らしていた。
しかし、ある朝、突然、死を迎える。
ただ寝ているだけのような、睡眠の延長で死を迎えたような死。

こういった死をみていると、死んだ人であろうとその人の中にまだ生が宿っている気がしてくる。
それは死ではなく、生の状態が少し変化しただけなのではないかと。
こういった感覚は身近な人の死でより深く感じるようになるのだろう。

茂木さんの本のタイトルをもじるとこんな感じかな。

生きて死ぬ私
死んで生きる私

送信者 大分、熊本、宮崎

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