月別アーカイブ: 2013年4月

経験を通してチャンスに気づくようになる

チャンスをものに出来る人とチャンスをものに出来ない人がいる。

チャンスなんて、いつもあるわけではないから、そのタイミングを逃さないことが大切だ。
チャンスだと思ったら、多少リスクを背負っても覚悟を決めて行動する。
先送りしないことが絶対だ。

そのチャンスというものは、頻繁にやってくるわけではない。
と言いつつ、誰にでもチャンスというものがやってくるのも事実。
(ここでいうチャンスは、自分では作り出せない、与えられるものと定義しておく。)

それにもかかわらず、チャンスをものに出来る人とできない人がいるのはなぜか。
それは2つの要素があって、ひとつはチャンスに気づけるか。
2つ目は、気づいたチャンスを活かせるか。

気づけるかどうかは、様々な経験をすると、チャンスに気づきやすくなるんだと思う。
どんな人にもきっかけは同じぐらい訪れているのだが、経験が足りないとそれがチャンスだと気づかない。
チャンスだとわかるように、いろいろな経験をして、小さなことから成功も失敗も重ねておく必要がある。
すると、大きなチャンスの時にチャンスと気づき、活かせる。

また、何があろうとなんとかするという気持ち(姿勢)も重要だろう。
そのような気持ちでいると、日常のどんなことでも、チャンスかもしれないという鋭い目でみる。
そうすると、他の人が気づかなかったことでも、チャンスに変わることがある。

こういった経験とか気持ちがないと、そこら中にあるきっかけをチャンスに変えられない。

そして、2つ目のチャンスを活かすのは、覚悟の問題だ。
チャンスということは、現在の延長線上ではなく、非連続の変化が訪れることである。
ということは、大きくプラスに動くかもしれないし、マイナスになるかもしれないというリスクを背後に持っている。

これを天秤にかけて、冷静にかつ、チャンスはすぐに去っていくのでスピーディーに決断する。
すると、チャンスを活かすことができるんじゃないかと思う。

チャンスはできるだけ多く、そして、そのチャンスをできるだけ高確率でよい方向へ向かうエンジンにする。
これにつきる。

送信者 モンブラン登山とUTMB2012

自分が意志を持って行動した後に着いてくる偶然

自分が意志を持って行動した後に着いてくる偶然

自分の人生を自分で生きる

自分の人生を自分で生きる

人に家電製品のようなスイッチはない

人はいきなり変われないかもしれない。

もし、人間にスイッチがあるとすれば、ONとOFFは簡単だ。
でも、人間にスイッチはついていない。
だから、人はいきなり変われないかもしれない。

たぶん、スイッチに類するものがあるとすれば、それは自らの意思なんだろう。
自分自身で、覚悟をもって意思をもつ。これが唯一のスイッチだと思う。

意志によって行動をかえる、
意志によって考え方を変えてみる、
意志によって価値観を変えてみる。

そして、そのスイッチを入れる方法は、強い衝撃を得る経験かもしれない。
大失敗をする、徹底的に怒られる、逆に成功体験かもしれない。

毎日のように身近な人に言われていた指摘。
それを、尊敬する人に同じことを指摘される。
その重なりによって、スイッチが入るかもしれない。

じわじわくるスイッチもあるだろう。
バチッと急に入るスイッチもあるだろう。

でも、早く変わるスイッチにしろ、
ゆっくり変わるスイッチにしろ、
今の自分が完璧でないという認識を持ち、
素直に受け入れる心をもち続け、
変わろうとチャレンジする、試してみる。

この姿勢がなければ、はじまらない。

そして、本人しかスイッチは押せない。
周りの人は、スイッチを押すサポートを最大限する。
そうなんだろう。

送信者 五島列島(上五島)と軍艦島

自分の発言に責任を持つこと。

自分の発言に責任を持つこと。
なかなか出来ない。
自分では一貫性を持っていると思っていても、ふと振り返ると違っていたり。
そんなコトは多々ある。

いい加減な僕は過去の発言を忘れたりもする。
そんな時は何かしら自分の哲学というか軸がはっきりしていると、毎回てきとうな発言をしなくて良くていい。
判断軸がはっきりしていれば、毎回考えて結論を出して発言しても、同じ結論になるはずだから。

とは言っても、人間は常に同じであるはずがなく変化するものである。
過去の発言にとらわれすぎてしまうのも良くない。
このラインが難しい。

まあ、他者がいるからってのも一貫性を持たせたい理由なのかもしれない。発言というものは常に他者に向けられるものであるから。他者は僕の言動を信じて、それを踏まえた上で行動をとるわけだし。そういった他者に理解されたいとかっていう欲求が人間にはあるのかもしれない。

ちなみに、ブログで過去のエントリーを引用するのは、昔の自分の発言に責任を持つこと。考えの一貫性を表すことでもあり、考えの変化を受け入れそれを説明する責任である。

そもそも沢山ある記事から引用するためには昔に自分が書いたことを覚えていないといけない。
結果として引用しようとする気持ち自体が発言に責任を持つことになる。全く同じ考え出なくても、過去と現在の違いを見比べて、なぜ変わったのかを知ることは出来る。それも含めて自分の発言に対する説明責任だと思う。

25,6歳ぐらいから、ある程度価値観が定まってきたなと思う。たぶん、それはさまざまな経験をしてきて、多角的に物事を見た結果として、この考え方が一番自分が信じられるというものに出会ったということなんだろう。

自分と言う物体は、昨日から今日、そして明日へと続いている。だからこそ、肉体がつながりを持つように、精神考えもつながりを持たせたいということか。

送信者 甲斐駒ケ岳20110709-10

自分で楽しめる人と自分だけでは楽しめない人

世の中の人を分類する軸はたくさんある。
一つの分け方として、

1.自分(だけ)で楽しめる人
2.自分だけでは楽しめない人

このような分類がある。

1.はさらに2パターンあって、
1-a自分で楽しみを発見し、自分ひとりで楽しめる人
1-b自分で楽しみを発見し、周りを巻き込んで楽しめる人

「2.自分だけでは楽しめない人」は、他人から何かを提供されないと、行動を起こさない人。楽しむことに対して常に待ちの姿勢でいる人。

誰かがいないから、つまんないとか言うタイプ。逆にこういった人は協調性というものがあるのかもしれない。

「1.自分だけで楽しめる人」は大ピンチに陥ったり、辛い状態でもそれをゲームのように捉えて楽しんで乗り越えれる人かもしれない。

まあ、楽しみの対象の問題かもしれません。
身近な人に対して楽しみを感じるのか、自然や行動などに楽しみを感じるかの違いなのかもしれません。

だから、どっちの方がいいという話しではないです。
個人的には「1.自分だけで楽しめる人」に近しい行動特性のある人の方が好きだけど。

送信者 八重山2008

善意に対してなぜ見返りを求めるのだろうか

見返りを求めるなら善意をしなければいい。
見返りが欲しいなら、義理とかでも善意の行動はしなければいい。

そんな気持ちがあってやるからこそ、見返りがなかったりすると文句を言う。
見返りじゃなくても、自分が善意でやったことに対して礼がないとか愚痴が出てくる。
(まあ、お礼をいうのは善意を受けた側からすれば、伝えるのが当たり前だが。)

心のそこから、何とかしたいとか、ちょっとでも助けになればと言う気持ちでやれば、見返りを求めることなんて考えもしない。
さらに、そういった気持だと心がこもるから、善意の行為を受ける側も心地よい。

でも、気持ちがないのに見返りや義理でやると、やっつけ仕事になる。行為を受ける側も苦痛だ。
両者にとってメリットがない。
気持がないのに偽善を行うと、見返りが欲しくなる。
それだと、両者に取って全く良くない。良い方向に向かわない。

自戒の念も込めて、見返りを求めず、何かをできるぐらいの存在になりたいものだ。

送信者 ドロップ ボックス