不便であることが高貴なことなのか?

スーツは不便である。
動きづらい、蒸れる、高い、汚れても自分で洗濯できないetc

でも、そんな不便な洋服をなぜ多くのビジネスマンが着ているのだろうか。
どう考えても、生産性が落ちるし無駄としか思えない。

スーツに限らない。
女性のドレスとかもそうだろう。
茶道とか、フレンチの食べ方の作法なんかも。
他にもいくらでも不便なことはあり、そうした不便なことは高貴だとか、しっかりしているとか、エリートとかそんな風に捉えられることが少なくない。

なぜ、そんなことになるのか。
不思議だった。

仮説として考えたのは、不便だけれど、裏を返せばそれを我慢できる精神がある。
そんな精神を持っている人物は、我慢が出来る精神をもっている。
すなわち、高貴であり、彼ら彼女らはしっかりした人物であるという考えなのだろうか。

一理あるのは事実だが、不便なものをあえて選択し続けることは、馬鹿げていると思えてくる。

個人的にはスーツは嫌いだし、便利な服がいい。
まあ、スーツはほとんど着ないし、本質的に着るメリットなんて感じられない。

雪の日のスーツな人々を見て思う。

誤解ないように書いておくと、伝統や文化があるのはとても素晴らしく、それ自体は伝承されていき、形は変われど残っていくことにすごく価値を感じる。
ただ、あまりにも不便だったり、形骸化している意味のない習慣はなくなればいいのにと思う。

送信者 パプアニューギニア2011

2 thoughts on “不便であることが高貴なことなのか?

  1. ドレスやフレンチの食べ方とかタキシードとかさ、昔は金持ちな貴族達の服やマナーでさ、自分で歩いたりしないからその服が着れる。優雅に食べる時間やそれを学ぶ時間や余裕があるからそれを食べる。
    みたいな感じで、つまりは庶民とは違うのだよ。から始まり、段々庶民も余裕が出て来て取り入れたからじゃないかな?

  2. めぐさん

    確かに貴族はフォレスでも料理もしなけりゃ、掃除もしないから成り立っていたのもありそう。まあ、庶民とは違うんだよオーラをだすのも、不便でもOKだからスゴイだろって感じなのかな?

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