目が覚めて、海の上にいる、そして島が見える。それは宝島。

前回の旅日記はこちら「ブルルン 奄美大島。最後は耐久戦。」

目が覚めても、
夢うつつ。

確かに僕は海の上にいる。
そこには島が見える。
その島は、宝島。

フェリーとしまに乗船したのが夜中の3時。そして目を覚ましたのが5時過ぎ。眠たいのは当たり前だ。船外へ出て海を見渡す。どうも日の出を見るのは無理そうだ。ついにトカラ列島だなぁと思いながら、朝の海風にあたりながらぼんやりとどこかを眺めていた。


朝の海

すると、「写真を撮ってください」とお願いされた。ご家族で子宝島へ行くようだ。兄弟に会いに。兄弟は学校の先生らしいのだが子宝島の前はベトナムに赴任していて、次は子宝島になったという。家族もびっくり。子宝島はいったいどこだっけ??という感じだったようだ。このご家族は与論島在住。なんとも凄い転勤だ。学校の先生も色々な転勤があるもんだ。


宝島

フェリーとしまからは宝島が見えた。この響きにみんなが夢を見る「宝島」。7時ぐらいに接岸。島の男たちが荷物を降ろす作業をする。宝島は後ほどくる予定なので、お楽しみはとっておこう。フェリーは荷物を降ろし、わずかな人を乗せると再び出港した。次は子宝島に立ち寄る。子宝島はその名の通り宝島から近く7時40分ぐらいに到着した。そしてその名の通り本当に小さな島。この島も悪石島の後に来る予定なので、詳細は後ほど。小宝島をすぎ、目的の悪石島に到着。島の人がフェリーとしまの接岸とともに集まってくる。この時間がみんなのコミュニケーションの時間であり、旅人と島民との会話の時間でもある。時間は短くても回を重ねることは人と人を近づける。自然と親しくなり会話が生まれる。こんなフェリーと人のつながりがある島々が好きだ。


悪石島

しばらく船に乗り9時20分頃に悪石島に到着。まず最初の島だ。フェリーが港に近づきデッキに出る。そしてフェリーから港にいる人を眺める。どこかで見たことがある風貌の人物がいる。あの背丈、あの体格、あの帽子。誰だろう?どこで会ったのだろう?思い出せない。フェリーを降り顔がはっきり見えたところで思い出した!といっても名前は知らない。以前どこで会ったか思い出したのだ。それはちょうど1年前のゴールデンエイーク。沖縄県八重山諸島の離島パナリ島。一緒に2泊した兄ちゃんだ。名前も連絡先も知らないが、こんなところで再会するとは。パナリの次は悪石島。いったいどんな縁なのだろうか。


大地に根付く

港からすぐ近くの民宿浜辺へ軽トラの荷台に乗せてもらい向かう。浜辺に泊まる男性が一人一緒だった。この数日で悪石島に訪れる人はフェリーとしまに同乗した人が全てだ。すなわち、浜辺で一緒なのもこの男性だけと確定。民宿浜辺に着くと、奥の部屋に通された。荷物を置いて畳に寝転がる。やはり寝ていないと体が鉛のようだ。しばらく休み、お茶を頂いた後、海中温泉や砂蒸し風呂の方へ向かう。誰もいない道を歩くと海中温泉発見!しかし、今の潮では入れそうにない。おばあとおじいにタイミングを聞いてからまた来よう。もう少し先へ行くと、山肌に野生のヤギがいた。そして、砂蒸し風呂で蒸される。体がぽかぽかしてくるが、虫が多くかつ硫黄の匂いが凄い。真後ろの岩が黄色になるほど硫黄が塊で付着していた。そんな岩の上から海岸線を眺める。悪石島だ。その名の通り石が悪い。ぼろぼろと落石しいて、海岸には崩れ落ちた石が散乱している。


ただ歩くのみ


ジグザクの道

宿に戻るとあまり食欲もなかったが、食べなければならない。この島には飲食店も売店も存在しない。出てきた食事を、出てきたタイミングで食べなければ次の食事までお預けだ。
無理をしてでも食べれば元気になる法則通り、元気が眠たさに勝ったようで悪石島の御岳へ登る。ひたすら歩く。ぐねぐねと曲がりくねった一本道を登り続ける。道にはヤギの糞が転がり、両脇は草や木々で視界は悪く面白みのない山道だ。頂上付近には電波塔がそびえ立っていた。ああ、こんな所に作っちゃったのねぇ、という感情を抱くが、昔は沖縄方面への電波中継基地で大きな役割を果たしていた訳だ。島の人からしたら、価値があったものかもしれない。誰の視点で、どの時間軸で物事を語るかは常に難しい問題だと思う。


一人島を歩く


頂上から眺める悪石島

そんなことも考えつつ、頂上から360度眺める。悪石島の全景が見え、そして諏訪之瀬島なども近くに見える。本当にポツン、ポツンと点在する島なんだなーと目で見て実感できる。すると、同宿の方が登ってきた。悪石島は大きい島ではないし、やることがある分けでもないので一緒になることは多々ある。旅の話しなどをしながら、一緒に歩く。最近はモーリタニアに行ってきたとお話しされていた。マラソンやウルトラマラソンもよくやるらしく、色々と話しが盛り上がる。名前も知らず、一瞬の接点で過ぎ去っていくお互いだが、旅の中にいるという一点で強くつながっている。


遠くに見えるは諏訪之瀬島


牧場を見て、悪石島で一番大きな上集落へ向かう。一番大きなといっても、上集落と浜集落ぐらいしかないのだが。誰もいない道をひとりでぷらぷらと歩く。なんだか、幸せだ。一人でどこかへ出かける。人もまばらなところに出かける。携帯電話も通じない。一人で自然に向き合いながら、ただここに自分自身が存在するだけの状態になった時に、何にも縛られない開放的な心地よさを感じる。それは、こんな感情なのだ。

町から離れた場末の港には人影もまばらで、夕暮れが迫っていた。知り合いも、今夜泊まる場所もなく、何ひとつ予定をたてなかったぼくは、これから北へ行こうと南へ行こうと、サイコロを振るように今決めればよかった。今夜どこにも帰る必要がない、そして誰もぼくの居場所を知らない……それは子ども心にどれほど新鮮な体験だったろう。不安などかけらもなく、ぼくは叫びだしたいような自由に胸がつまりそうだった。
(『星野道夫著作集3』、一四二頁、「旅をする木」より)

http://teratown.com/blog/2006/05/23/iaiau/


少年

上集落にある学校に寄ると一人の少年がいた。「こんにちは、こっちに来てください」と大きな声で挨拶されたと思ったら、早速こっちに来てくださいという誘いを受ける。彼は学校の池の中にいる金魚をさわって遊んでいた。そこでひとしきり遊ぶと、バッタを捕まえたり、ヤモリを捕まえて水に落としたり。俺のカメラに興味を持って写真を撮ったりと、一緒に遊んだ。元気で自然な少年だ。自然というのは、自然の流れに逆らわないで生きているなぁと感じるような小学生だった。


神社の鳥居

その後、上集落にある神社を歩く。いくつかの神社があるが、沖縄の御嶽を思わせる作りの神社が多い。特に気になったのは鳥居だ。鳥居にギザギザの模様が彫られている。他では見たことがない装飾であり、驚きとともに少しの不気味さも感じた。うっそうとした木々の中にある神社やテラと呼ばれるお墓を見た。このお墓にはボゼ祭りの仮面も捨てられて、朽ち果てかけていた。そして、お墓の前にある花筒も特徴的であった。竹で作られた花筒であるが、上からひとつ目の節まで赤色で塗られており、さらに家紋のような印が彫られていた。こういった文化のルーツや背景に興味を抱き、浜集落にある宿まで歩いて帰った。


浜集落へ向かう坂道から海を望む

神社について詳しくはこちら。
http://teratown.com/blog/2009/05/24/yeyyeia/

夕食は鰹と鮪の刺身を盛りだくさん。そしてこの時期にとれる大名タケノコの煮付け、とってもおいしかったフキの煮付け。何杯もご飯をお変わりした。それから海中温泉へ向かう。しかし、潮が引き始めており、お湯が熱すぎたので断念。湯泊温泉に行くことにした。波の音を聞き、夜空を眺めゆっくりと温泉につかる。至福の一時。その後、民宿浜辺に戻り、昔悪石島に住んでいて、若い頃に両親と家族で鹿児島市内に移住した方と話す。ゴールデンウィークということで、島に戻って来ていた。浜辺のおじいとおばあと仲が良く泊めてもらっているようだった。夜、焼酎を頂きながら昔の悪石島のことを伺った。
このおっちゃんは60歳ほどで、18歳の時に家族で悪石島を出たそうだ。父親が生きている間は毎年島に戻り家を修理していたが、台風でつぶれてしまってからは家もなくなり、この民宿に来ているそうだ。まだ、道がしっかりとできる前の悪石島での話し、当時のボゼ祭りのこと、御岳の山頂にある鉄塔の建設にワクワクした話しなど。もちろん、島で生活する大変さと喜び。そして、島を出ても島を誇りに思う気持ち。

適度な酔いと適度な郷愁を抱きながら、眠りについた。まるで田舎のおばあちゃんの家に泊まりにきているかのような夜だった。


宿

本当に悪い奴

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