越えられぬ愛は、心の中で続いてゆく。[そしてテヘラン再び。]

前回までの旅日記はコチラ。「マシュハドの日常。そしてマシュハドとの別れ。」

送信者 イラン

朝のテヘラン


早朝のテヘラン駅に着く列車

翌朝 電車がテヘランに到着すると、日がちょうど昇り、雪化粧をした山脈が赤く染まっていた。早朝はテヘランも冷える。そんな寒さの中でも首都のターミナル駅だけあって、朝から多くの人で溢れかえっていた。テヘランに再び戻って来た。2週間ほど前に、生まれて初めてイランに降り立った地もこのテヘランだ。その時に感じたテヘラン(イラン)の印象と、ぐるりとイランを旅をして再び降り立ったテヘランは違う町のように感じるほどだ。テヘランがかわったわけではなく、イランを旅してきた自分がかわったのだろう。自分の心を通して世界を見ているんだなぁと深く感じる。


赤く染められた山脈

インドを旅したときも、デリーから入り北インドを旅し、再びデリーに戻った。このときも同じようなことを感じた。入国したばかりのデリーと、インドを旅した後のデリーは全く違って感じた。旅の期間が短ければオープンジョーのチケットを買い、入国する空港と帰国する空港を別にした方が効率的な旅ができる。実際に南米や中国の旅ではそうした。でも、今回のように同じ空港から入り、出ていくという旅も良いもんだと、改めて気づいた。


早朝のテヘラン


地下鉄の入り口

とりあえず駅を出て、安宿街へ行こう。駅から10分ほど歩き、地下鉄へ。地下鉄を乗り継いで、目的地の近くへ行く(5,000リアルぐらい)。しかし、地図がないので何処か分からない。そこで、近くを歩いていた兄ちゃんに聞くと、携帯で地図を確認して、こっちが安宿街だよと教えてくれた。GPSでもついた携帯なのだろうか。世界中どこへ行っても携帯電話の普及率の高さと、その利用シーンの幅広さには驚く。それほど携帯は人間が求めている欲求を満たしてくれる機器なんだろう。到着した安宿街は、自動車やら電気製品やらの部品が並ぶ商店がずらーっと軒を連ねていた。


地下鉄

宿に到着し、ほっと一息つくと、バザールへ繰り出した。中東で最大といわれるテヘランのバザールに迷い込む。テヘランでは特にやりたい事がなかったので、バザールを歩いていろんな人と話す事ぐらいだ。宛てもなく路地を歩き、店の人と話し、チャイを飲み、お菓子をつまみ、商店でトイレを借り、ケバブを食らう。今日はイスラムの記念日らしく、町でナンやお茶が振る舞われていた。


バザール


バザールのお菓子売り

本当にどでかいバザールだ。とはいえ、永遠に続くバザールなんてあるはずなく、バザールから外れた。しばらく歩き、歩道橋を渡っていると、車の車体がうずたかく積まれ、車のさまざまな部品も積まれた地域が見えた。そこそこの広さがある、そんな一帯は車の部品が詰まれ、それによって道ができた区画があった。歩道橋から偶然にも見たから分かっただけだ。道を歩いていたら気づかなかっただろう。ついつい気になり、中へ入る。両脇には自動車の車体や部品が高く積まれている。そんな地域には車から部品を取り出したり、修理する兄ちゃんしかいない。所々に鳥かごがぶら下げてあり、危険なガスが出た時にはすぐ分かるようになっていた。


手前に見える自動車部品の山

少し、不安になりながら歩いていると、「オイ」と話しかけられた。しかし、「おい」だとは分からなかった。ここは自動車の部品が積み上げられたテヘランの一角で、日本語が聞こえてくるはずがないと思い込んでいたからだろう。何度も「オイ」「オイ」と声を変えられたので、振り向くと「おい」とやはり呼び止めていたのだった。怖そうな顔をしたムキムキっぽいおっちゃんだ。。。嫌な感じになったなと。それに、どんどん人が群がって来て、珍しい外人を見るために俺を取り囲むように集まって来た。

ただ、マイナスのイメージだけかと言えば全くそうではなくて、集まって来た彼らは本当に無邪気な笑顔をしていた。お金はなくても、毎日自動車の解体や修理の仕事に明け暮れ、仲間と楽しい日々を送っている。そう言い切れるような笑顔だった。色々な仕事のカタチ、幸せのカタチがあるんだと、改めて感じさせてくれた。

日本語を話すサイドゥという男と少し立ち話をする。旅人がいつも聞かれる定番の質問をいくつか。東京から来て、イランではエスファハンとマシュハドetcに行き、2週間程度で、と。サイドゥがお茶でも飲んで話そうと誘ってきたが、この場に長居するのは良くない気がして、帰ろうとしたが、男が少しだけ俺のお茶を飲んで行けというので、飲んで行く事にした。車体が積み上げられてできた壁と屋根の中をくぐり、奥へと入っていった。土の道は油でネチネチする。そこには、日本語を喋る男の作業スペースがあった。


自動車部品の山

彼は油で汚れた手を洗い、ココアのようなモノを振る舞ってくれ、それを飲んだ。チャイ以外の飲み物を久しぶりに飲み、うまかった。男は強面で、実際に話し方も怖い。しかし、男自身の中身を知らずに怖がる人間が嫌いだけのようで、こちらが心を広げて話せば、いろいろなことを話してくれた。男が日本で建設関係の仕事をしていたときの事、イランでの生活のこと。男の父親も紹介してくれた。

そして、サイドゥは日本にいた時の彼女の話しを始めた。俺は日本で意外とモテたんだぞと、照れくさそうに語った。新潟で建築の仕事をしていた時の彼女のことを話し始めた。その彼女はバツイチで5歳年上だったと言う。2年ほどつき合っており、結婚も考えていたが、プロポーズしようとしていた10日前にビザ切れで牢屋に入れられてしまったと言う。そんな状態になっても彼女は毎日差し入れを持って来てくれた。牢屋にいる他の日本人は誰も面会に来てくれる人がいなくて、みんな俺の事をうらやましがっていたなぁと、当時を思い出したように話した。

しかし、ビザがないためにイランに強制送還され、彼女と連絡も途絶えてしまった。それから時がたち、イランで結婚しているが、今でも彼女のことが好きだと言う。照れくさそうに「今でも愛しているんだよね。」と話しながら、引き出しから何かを取り出した。それは色あせ、ぼろぼろになった手紙だった。俺が読めるようにひらがなとカタカナで書かれているんだよ、ほらっ、と。そんな手紙をうれしそうに、そして照れくさく懐かしそうな、はにかんだ顔で、彼は読み始めた。時おり涙声で。

手紙の最後に彼女の名前と電話番号が書かれていた。電話番号は知っているけど、かけられない。今さら電話する事はできないよ。でも、俺が元気だってことだけは伝えたい。だから、あなたが日本に帰ったら、俺が元気だと伝えてほしい、と俺は頼まれた。どうしても越えられない事もある。それは諦めではなく、致し方ない事なのかもしれない。でも、それだからこそ心の中で続いてゆくんだろう。こんな話しをここで聞くなんて思ってもいなかった。

この一帯で働く多くの人が、見送ってくれてその場を後にした。少しばかり、しみじみとした気分になり、チャイハネでチャイをすすりながら思いを巡らした。夜も遅くなり、宿へ戻る事にした。空は夕日に染められ淡い紫色のグラデーションが美しかった。そんな空には二日月がはかなげに輝いていた。宿に戻り、ケバブを食べ寝る事にした。

送信者 イラン

微かに見える二日月

いらん旅日記の続きはコチラ「さようならイラン」

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