日別アーカイブ: 2009/1/27 火曜日

手応えをもって食べる

「サバイバル登山」という登山スタイルを聞いた事がある人は少ないかもしれない。サバイバル登山とは、電力(電池)で動くものを持たず、装備や食料もできるだけ持たず、可能な限り素のままで山を登るスタイルのことである。この「サバイバル登山」を作り上げたのは服部 文祥さんだ。

そんな服部さんを初めて知ったのは、立川の書店だった。歩きながら平積みの本を物色していると、目に飛び込んでくる表紙があった。魚の皮を引きちぎっている写真だ。さらに服部さんの目がギラギラしていた。タイトルに眼をやると「サバイバル登山家」とある。この写真とこのタイトル、何やら面白そうだぞということで買ったのがきっかけだ。昨年は「サバイバル!―人はズルなしで生きられるのか (ちくま新書)」という本も出版され、この本も昨年読み非常に面白かったのだが、読後の感想はまだアップできていません。。。

そんな服部さんの話しを聞ける機会があるというので、足を運んだ。始めは、どんなストーリーで話すか決まっていなかったようで、話しがあっちに行ったりこっちに行ったり。服部さん自身もなにを話そうかなと迷っているようだった。ただ、スライドが始まると小さい頃から現在に至るまでの出来事とともに、サバイバル登山に至った背景を語ってくださった。小さい頃は昆虫を取りにいったり山を駆け回っていたが、中学高校ではハンドボールに熱中。しかし、再度自然にふれたくて大学ではまた山を登りはじめた。K2を登ったときに、重たい荷物を何百人のシェルパに担いでもらい登山した事で、そんなことしてまで登る必要があるのか?と疑問をもち、サバイバル登山を始めたようだ。この辺りの事は服部さんの著書にも詳しく書かれている。

服部さんがしきりに話していたのは大学とK2には感謝しているということ。服部さんは都立大学出身なのだが、この大学を卒業している事で悪く見られる事はないし、頭のことで気にしなくても良い。さらにK2では酸素も使って登ったが、略歴として残るのはK2に登頂したということだけだ。それで、一流の登山家と見られる。この二つには本当に感謝していると。確かに、それ自体に本当に意味があるのかどうかは本人次第なのだが、周りから見ればスゴいということになる。世の中で要領よく生きるにはこういった事が鍵になったりするのは、良い悪いにかかわらず事実であったりする。

スライドを使い説明した後は、狩猟の話しになった。今、服部さんが最も熱中しているのが狩猟じゃないかと思うほど、楽しそうに真剣に語りはじめた。狩猟を初めて4シーズン目だという。山梨の狩猟仲間に混ぜてもらい、一から学んで狩猟をしているという。犬を使う狩猟や、一人で隠れて狩る方法、打った後のさばき方など狩猟の仕方を写真つきで説明をした後、今、服部さんが直面している葛藤に話しが至った。

散弾銃を使う事がフェアなのかということ。彼はそうではないと考えているようだ。銃はフェアではないし、威力のある道具だから事故の規模が大きいからだ。ただ現状では、銃を使わずに罠で捕まえる事は困難であるという事実がある。だから少しでもフェアになるために、チームではなく一人で山に入り、銃で撃った後はナイフで頸動脈を切ると言う。そして、おいしく頂くと。このようにこだわるには、ある経験があったようだ。パキスタンで泊まっていた宿の親父が、肉屋がやって来るから行こうと誘われ、そこに行くと肉屋の親父は牛を引っ張って連れてきた。そして切り株に頭を押し付け石でガツンッとやったという。その瞬間に服部さんは目をそむけた。その後、宿の親父に肉を食うかと聞かれ、食べると伝えたが、はたして自分に食べる権利があるのかと考えたようだ。

だからアンフェアなことが気に食わない。自分が殺さずに誰かが殺したものを食べることは卑怯なこと。殺している手応えを感じなければありがたみも薄れる。確かにそう思う。何かを殺しているから自分が生きている。生きているものを殺して食べなければ、人間は生き延びれないのだ。とは言っても、殺す瞬間というのはいつも心が痛むと言う。だから、昔からの習わしで、動物の心臓に3つ切れ目を入れて、お供えするようだ。一人だからやらなくてもいいのだが、昔の習慣に従っていると言う。服部さんは罪悪感を減らすために心臓に切れ目を入れてお供えするのかなと話していた。

自分で狩りした肉を食べて気づいた事がいくつかあるという。スーパーの肉は鶏のもも肉といえば全て同じ味、牛のヒレといえば同じ味。だが、野生の肉は個体によって味が異なるから、ひとつの個体を食べて、鹿はこの味だから嫌いとか、イノシシはこの味だから好きと決めない方が良いらしい。野生の動物は飼育されている動物と異なり、食べているものも異なるから、味も違ってくるのだろう。

そしてだんだんエンジンが温まり、最後は盛り上がった。服部さんは照れ屋で、器用はないと思う。でも、本当に自分が直面していることを最後に少し話して下さった。その時は纏っていた空気が変わった。それは登山に対する姿勢、なぜ山を登るかということだった。

最近は山に行く前に「ああ、死ぬかもな」と思わなくなった。だから自分の登山がシフトダウンしているんじゃないかと思う。それは美しくないんじゃないか。表現としてダメなんじゃないか。本や文章を書くために山に登る事はアリなのか?それは美しい事なのか?

なぜ山に登るのか?なぜ文を書くか?理由を考えてみると、かっこいい人間になりたいから。かっこいい人間とは、深い人間のこと。それが自分にとっては登山だった。小さい頃から横浜で育ち、たいていのモノは周りにあった、そんな現場感のない世代。だから現場の本物に触れたかった。何か自分を証明するものが欲しかった。その証明するものが登山だった。だから妥協はしたくない、と。

質疑応答で、サバイバル登山家の後継者を育てたくないか?という質問が出ると、「やりたい奴がやればいい。詩人と釣り師はつくれないというイギリスのことわざの通りだ。なぜやるかと言えば、ボクが深くなりたいだからやる。やりたい人がいれば教えることはする」と。

ついでに白馬山の池がきれいとか、間ノ岳が良いとか、八ヶ岳北面が好きとか、玄米をごぶずきにして食べると体力が着くとか、そんないい情報もゲット。さらに、「くうねるのぐそ」という本も知った。人間は本来食べたものを地球に還元すべきだとノグソをしている人の本。おお、素晴らしい発想だと思った。ちなみに僕の一番気持ち良かったノグソは、真冬の真夜中にチベット タンゲ峠でしたノグソ。

狩猟関連では「ぼくは猟師になった」 (千松 信也 (著) リトル・モア)という本も以前から気になっているが、まだ読んでいない。