また小説を読んだ。
今というタイミングは小説が一番なじむらしい。
何冊か手に取った後、結果として自然と手が伸びるのが小説だった。
僕は、毎朝一冊の本を手にする。
本棚に平積みみにしてある本の中から一冊だけを手にとる。
読みかけの本はカバーを取りはずして、平積みにしてある。
15冊か20冊は平積みされているんじゃないかと思う。
読みかけでストップしているものや、1週間に一度程度読み進んでいる本、毎日連続して読みきってしまう本。
いろいろなパターンがある。
その日の気分次第で、一番すんなり体に入ってきそうな本を手に取って出かける。
僕はいつも手ぶらで外出するので、基本的には文庫か新書だ。
ハードカバーは家で読む習慣がついている。
今日は、「風の歌を聴け 村上春樹」にした。
先日もちょっと書いたが、「走ることについて語るときに僕の語ること」から村上春樹をちょくちょくと読むようになった。
「風の歌を聴け」は書き出しを読み、今日はこれにしようと決めた。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」僕が大学生の頃偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しないと。
しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。
8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。–8年間。長い歳月だ。
もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。(中略)
今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。
ストーリの展開がたまに断絶されるので、途中「あれ?あれれ?」ってな部分もあった。
全体としては流れが分かったが、断片的に入るシーンを村上春樹は何を思い書いたのか、そんなことが気になった。
この本自体は、ああいいなと思った。
ああ、若いっていいねと。
風の歌を聴け 村上春樹
2008/06/14